The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

「心」の病じゃない、体の病だ

精神疾患」「心の健康」「心の病」「心の風邪」そんな言葉は聞き飽きた。

 

私は今まで自分の「心」とやらと嫌になる程向き合ってきた。なぜなら自分に現れた症状が「メンタルクリニック」で対処してもらう病気のものだったからだ。精神、心の病だと思い込んできた。たくさん考えた。なぜ自分は憂鬱なのか、不安なのか、怖いのか、そして体が動かないのか、どうしてこんなに痛くて、苦しくて、眠くて、頭が働かなくて、涙が止まらないのか。謎は深まるばかりだった。

 

でもそうやってもがいている内に、気づいたことがある。それは、「心」なんてなくて、私には「体」しかないということ。どうして長いこと「心」なんて曖昧なものがあるとぼんやり思っていたんだろうか、バカらしい。もう私は、そんなものないと思う。便宜上その概念を使うことはあるだろうが、存在を認めることはもうしないと思う。

 

そもそも精神疾患というのは「心」の病じゃない。体の病だ。憂鬱な気持ちが強いだけではうつ病と診断されない。「社会参加に困難をきたしているか」といった診断基準が設けられているはずだ。学校に行けない、会社に行けない、人間関係に大きな支障をきたしている、日常生活に支障をきたしている、などの条件があるのではないだろうか?(細かい診断基準のことはわかりません)そしてそこまでの状態に至るには、多くの場合体調的な問題が絡んでくると思う。

 

有名どころの精神疾患の治療法は、大体が投薬と心理療法の二つだと思う。投薬は、体に直接働きかける方法。特定の神経の伝達を活発化させたり逆に弱めたりして、睡眠や気分のコントロールをする。東洋医学を用いて漢方を処方する場合もある。心理療法は薬を使わず認知や行動や情緒に変化を与える方法。対話や集団での活動など多様な療法がある。

 

治療を始めた頃私はこれを「ハード面とソフト面から攻めるのだ」と理解していた。体は薬で、心はカウンセリングなどで、という具合でだ。それが正解なのだと思い込んでいた。

でもそれが違った。私という存在は、私の体ありきなのだ。体がなければ、私は存在しない。ソフトなんて、ないのだ。我思う、故に我あり、ではない。我思う、故は体なり、である(適当)

 

そこで考え方を変えてみた。私は、「心」のことはひとまず置いといて、「体」を思いやればいいのだ。

 

筋肉こそがソリューション!とか、オーガニックしか食べるべきじゃない!とか、そんなことが言いたいわけじゃない。要はこういうことだ。私は、体だ。そしてその体は、胃に入れるもの、肺に入れるもの、五感で感じるもの、などの影響を受けて日々変化している。悲しい。憂鬱だ。不安だ。頭が痛い。胃の調子が悪い。眠れない。人に会いたくない。それはなぜか?体が影響を受けた結果である。じゃあ何を変えたらいい?影響を与えるものを変えればいいのだ。食べるものを変える、目に入るものを変える、聞こえるものを変える、触れるものを変える。それらは行く場所を変える、会う人を変える、身辺環境を変えるなどで達成される。そしてもう一つ、私の体に影響を与えているものがある。それが運動だ。運動は認知や感受の結果を受けて無意識下で行われるものではないから、自らの意識で行うしかないと思う。しかし、運動というのは本来私たち人類は「意識して」行っていたものではないのではないだろうか。せざるを得なかったことなのだと思う。でもその強制力を失った今、必要となれば意識的に行うしかないのだと思う。

 

筋トレが万能のソリューションではないと思う理由はこれだ。体は(多分)筋肉だけでできているわけではないから、筋トレで内臓の環境は変えられない。五感で受容するストレス源は取り除けない。結果的に、体、つまり私を変えることにはならない。

 

これは一つの考え方であり、絶対に正しいとは思わない。それに、医学や心理学など学問領域で使われる「精神」だとか「心理」だとかいう概念が、一体なんなのか正直よくわからない。何も根拠もなく書いていることなので、あまり難しく受け止めないでほしいし、怖いので強い批判は受け付けない。

 

 

私がこの考え方についてもう一つ思うのが、この「心の病は体の病だ」という認識がもっと広がれば、きっと精神疾患患者たちの心労は幾分減るだろうなということだ。うつ病は「甘え」だとか、精神疾患で休んでいるのに遊びに行くのはおかしいだとか、そういったことを言う人が未だにいるらしいが、そういった人にはやはり精神疾患が「心」というソフトだけの病気だという間違った認識があるのではないだろうか。精神疾患は体の病だ。だから、治すには体に働きかけるしかないのだ。体を、体を取り巻く環境を、変えるしかないのだ。それが今回の記事の主張だ。

 

ツイートに書ききれなかったので記事にしたまでですが、読んでくれた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

ここからは私個人のブログらしい内容になる。

 

今日からジムに通い始めた。というのも、前述の内容の前者「影響を与えるもの」のコントロールが落ち着いて、かなり快適になった。居住環境は至極快適、学校に通うストレスもなく、人間関係の複雑なバイトもしておらず、とにかくストレスが少なく快適だ。定期的に会っている人間といえば兄と恋人くらいで、本当に気持ちが軽い。ここまで書くとどれだけ社会不適合なんだという感じだし、みんながみんなこの状況を作り出せるわけではないから、こいつはなんて甘ったれたクソ野郎だ、という声もわかる。聞こえる。だけど、この状況が今現在の私の体には合っていて、心地がいいのだ。精神疾患の治療のためと考えれば、適切な状態だ。お陰様で憂鬱な気分や漠然とした苦しい不安も和らいできて、日々穏やかに過ごせている。頭痛や腹痛も減った。ここまで辿り着けて、本当に良かったと思っている。

 

こうやって環境は整えた。よし、じゃあ次にすべきは運動だと思ったのだ。実は今、人生で一番太っている。それはもう体が重い。見た目が醜いだけでなくそのせいで自信が削がれているし、疲れやすくてヒールを履くと足が酷く痛いし、良いことが一切ない。これで痩せれば、自信もつき、体調もきっとさらによくなり、快適に違いない。だから痩せる。今日(日本では)初めてジムに行ってみたが、とにかく楽しかった。イヤホンもつけず運動に集中してみたら、心が洗われるようだった。瞑想するのと同じくらい気持ちがいい。代謝が悪いので、汗をダラダラかいて運動終わりに熱いシャワーで「ッカ〜!!」みたいな経験はできなかったが、私なりに楽しめた。週3を目標に通っていこうと思う。

 

最近は先述の通り、調子がいい。素晴らしいことだ。そしてそのことから、いかに自分が社会組織を苦手とするかを痛感している。でもだからと言って悲観していても仕方ないので、自分に合った生き方を考えていかなくてはなと考えている。とりあえず今は慶應の通信課程に受かることが第一で、その次にTOEICやその他の勉強かなという感じ。だけど、ゆくゆくは社会組織に慣れるためにバイトをしてみたり、自力で少しでも稼ぐためにスキル(翻訳やプログラミングを考えている)をつけたり、能動的にやっていこうと考えてはいる。集団に適応してコマとして働くのが一番楽な稼ぎ方、楽な生き方と思う。だけどもしそれが合いそうにないなら、結果的に病に陥るようなら、フリーランスで食っていく覚悟を決めなくてはいけない時が来るかもしれない。避けたいとは思うが。備えは早いに限る。有難いことに備える時間を与えられていて、私もその恩恵を享受することに決めたのだ。決めたことは突き通すしかない。

私は私だけの方法で、生きていくしかない。

 

 

 

おわり