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The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている社会不適合の書き溜め

感覚と差異のこと どうでもいいこと

空気には重さがある。水中を歩いているかのようにかき分けて進まなければならない感覚を覚えることもあれば、やけに抵抗なくスイスイと歩いたり走ったりできることもある。

 

私は小さい頃から、目を信じられなくなることが度々ある。見えているものが全てではないような、他人事を眺めているような気がする。私人間から見えている世界と、他の生き物たちから見えている世界は違う。色、焦点の位置や数、鮮明さ、立体感、主体からの見え方には色々な違いはあるだろうけど、物体そのものの存在は確かで同一だとされているんだろうと思う。だけどそうなんだろうか、私に見えないものが本当は存在しているんじゃないだろうか。私に見えないもの、聞こえないもの、肌に触れないもの、きっとあるだろうに、私は感受できるものだけを信じるしかないのか、あるのに、気づかず、終えてしまうのか。

 

科学を駆使すればきっと知り得る範囲は広がるだろう。音波や微生物を目視できるだろうし、他の生き物たちが見ている世界を少しは体験できるかもしれない。私は社会科学が好きだから理系の学問には足を浸さないけど、物理化学生物なんかの高次元な話が理解できたらさぞかし楽しかろうと思う。きっと時間や生命など大きな概念に対する解釈も変わったりするんだろう。

 

最近は、視界の様子がよくない。すぐに現実味を失う。テレビで映像を見ているような、変な客観視が入る。そこに自分は属さなくて、自分には居場所がないのだと強く思う。家族も他人に感じるし、絶対的な存在であるはずなのに、そばにいるのに、孤独がつきまとう。いくら交友関係がひどく狭い私でも、家族はいつでもそばに、味方に感じた。それすら失う気分は、痛みを忘れるほど悲しい。軽い離人症なのかもしらないけど、この場合名前は意味を持たない。

 

 

最近は予備校に通い始めた。自分の体調への考慮と、海外生活をするための自信とモチベーションの低下から、再度日本の大学を受けることにした。大学へ通い出すたびに不安障害になるようなら、いっそ働くか全日制大学は諦めてしまえばいいのにと、外部から言うのは簡単だと思う。正直自分の中にもそう叱る人がいる。だけど、不安に苛まれ体が動かなくなることへの恐怖より、好きな勉強をして知見を広げその上で仕事を選びたい気持ちの方に、常に軍配が上がっているから、そうは簡単に諦められない。勉強がしたくなければ、大学なんて最初の中退後にとっとと諦めている。

 

私が海外の大学を選んだのは、主に日本の大学に行きたくなかったからだ。一度思い出に汚れた音楽は再度聞きたくなくなるように、日本の大学というものに関わりたくなかった。そこにまた踏み入れようとしている。想像するだけで怖いし、泣いてしまうほど不安。だけどこの選択の理由は十分用意したし、不備はない。勉強したいことは決まっているし、学生時代にやりたいことはたくさんある。周りが年下ばかりでも、まあやっていけると思う。問題は、無自覚なうちに体と心が蝕まれていき体力もやる気も失い授業に出られなくなる、あの恐ろしい展開になる事態を、どう食い止めるかだ。それはこれから受験生として過ごす約一年の間に、緩やかに解決していけたらいいなと思う。

 

正直、まったく不本意だ、全てが。上手くいかなすぎる。本当に悔しいし上手くいっている人が憎い。いくら大学生活が孤独で退屈でつらいと主張されても、それは浮気した側のたわ言ようなもので、立っている土俵が違うので聞きようがない。誰だって悩みがあるのは当たり前だろうが、人と人の関係は必ず社会的要因を介し、その客観的事実を置いておいて精神論だけで語るのはときに不適切だと私は思う。それは差別問題にも通ずる。みんな同じ、ただ存在する、それでいいじゃない、な訳がない。差別はあらゆる制度によって構造化されているし可視化されているのに、その事実を置いて"感情"だけで解決しようとするのは無理があるしあまりに雑だ。

 

世の中に高卒の人もたくさんいるじゃない、と言うのは簡単だし事実だ、けれど、私の歩んできた人生においては圧倒的に大卒の人間の方が多いのだ。それは想像すればわかるんじゃないだろうか。だから疎外感や焦りを感じてしまうのであって、そんな励ましならせずに金でも落としてくれ。自分は人と違うという意識で壁を作るからいけないのよ。確かにそうだろう、その意識を作っているのは私自身であって、自身の首を締めているようなものだ。だけど高校や大学の友達で、私と同じようにレールを外れた人を私は知らない。違うのだ、選択が。壁を作っているのは私だけではないと言いたい。私はどちらかというと、壊さなければいけない立場だ。

 

私に限った話でなく、人と人の差異に関する問題では、社会的または科学的な事実を無視した激励や解決方法の提示が本当に嫌いだ。私たちの心理は漠然とした大多数の行動や思想や歴史に、いちいち紐付けされていると思っている。何も介さずに行われる異常に近いコミュニケーションも存在して、それは特異で魅力的だけれど、非常に限られた人間としか成立できない類のものだと思っている。

 

ちっぽけな差だろう、私のしてきたこと、中退とか、自傷行為とか、大したことではないと言えるだろう。それでも同じであることが求められる文化の中では特に、息苦しく感じてしまう場面が多々ある。それでも差を受け入れつつ、壁を内部から壊しつつ、その破片を拾い集めて自信に変えるくらいの勢いを持って、なんとか生きていくしかない。理解を求めたいわけでもないし、人に話すのは面倒くさい。だからブログに書いた。なんて無駄なんだろう。ああ、この時間を勉強に裂けばよかった。はあ。

 

とにかく、また私は出発することにした。しばらくは福岡の地で、わざと視野を狭めて受験勉強に専念してみようと思う。拡大と収縮の繰り返しの、収縮のフェーズに入っただけだと言い聞かせようと思う。生命活動だって文化だって、そうやって進んでいくものでしょう、多分。それなら従おう。