The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

奇麗な女と私の話

高校を卒業して以来、ほとんど小説を読んでいない。

 

大学を休学して療養していた頃に神保町の古本屋を渡り歩いていて手に取ってみた本が最後だと思う。それだって、最後まで読み終えなかった。話はぼんやり覚えているけれど、タイトルも著者も覚えていない。「愛」が入ってた気がする。あと、麻薬か、武器か、何か刺激の強い言葉もタイトルに入っていた気がする。でも全然覚えてない。

 

原始時代に洞窟で思索に耽り未来を見据えていた最も賢い男、世界大戦時に牢獄で過ごした男、そして現代を生きる普通の男。賢い男にはビジョンと野望があった。牢獄で過ごした男には賢い男、前世の記憶があったが、彼の思うようには動けなかった。弱い人間だったからだ。普通の男にも賢い男、前世の記憶があった。そいつが主人公だった。そいつが、女に出会う。賢い男が宿る肉体を変え探し求めていた像に近い女。それが私には厄介だった。女が出てくるまではなかなか面白かったのに。

 

普通の男は奇麗な女にパブで出会う。少しずつデートを重ね奇麗な女は自らを語る。奇麗な女は日本人ではなかった。裕福で、賢くて、美しくて、所謂完璧な人間だった。美貌と叡智を使い慈善活動に勤しんだ。けれど、常に「何かがおかしいわ」と口にしていた。いくら他人の幸福のために働いても世界が一向に良くならない、何かがおかしい、そういつも思っていた。奇麗な女はある時自らの生きる世界を捨てる。誰も想像がつかないほど深い深い社会の底へと落ちる。薬物に依存し性を売りゴミ溜めで生きた。その後紆余曲折あって(あまり覚えていない)、三十歳近くなった奇麗な女は日本で反捕鯨団体で時々活動しながら生活していた。

 

この二人に何があったのか知らない。女がどんな人間なのか詳しく知らない。多分その女が普通の男と仲良くなり始めたあたりから文章が色めき立ち始めて興味が失せたのと、反捕鯨を結構推してくるのが気に食わなかったんだと思う。

 

私はその奇麗な女が嫌いだった。私は金持ちではないし頭も良くないし美しくもないけれど、そうなりたかったのかもしれないし、彼女の感覚に自分の感覚に重なるものがあったのかもしれない。人の羨むものを全て持ち、人が尊敬することをやり、それなのに世界は変わらない、それどころか、世界は悪くなるばかり、世界の汚ればかりが肌から、目から、耳から、全ての侵入ルートから入り込んでは自分を蝕んでいく、黒い沈殿物が溜まりに溜まっていくのを感じる、何もかも捨てたくなって、吐きたくなって、わからなくなって、糸が切れたように我を見失う、彼女が理由もわからず嫌だった。

 

その本を読んだ頃私は薬無しでは生活できなかった。生きるためだけに生きていてた。そこに理由も目的もなくて、ただありもしない「普通」のためにあがいていた。毎日足を切り落としてくれ腕を切り落としてくれと願っていた。満たされているから悪い、私は幸せになるべきなのになれないなんて間違っている、この体を全うできないなら死んだ方がマシだと思っていた。

 

 

三が日が終わった四日の朝、小説を読まなくなったのは問題だなと考えた。

 

あれ以降、私は歴史の本とか、国際関係学の本とか、鳥類の本とか、考古学の本とか、哲学の本とか、現実のことが書かれた本ばかり読んだ。数は多くないけれど。私は真実ばかり追い求めるようになってしまった。尤もらしくて、手垢まみれの、事実と概念に酔ってしまった。導いてくれるような気がしてしまった。物語を読んで自分の想像力を使ったところで、私は楽になれないと思っていた。

 

そもそも、私の想像力がもっと欠如していれば苦しむこともなかったんだと思い込んでいた。知らない人の心の痛みを感じなければ、個人に社会を見なければ、自分のためだけに動ければ、こんなに心を病むこともないのだと、あらゆる感覚を閉ざそうとした。感情を悪者にして、殺そうとした。辛い、悲しいと感じたら、理性を引っ叩いて働かせ感情を罰した。私はきっとこういう理由で悲しい、こうだから不安、でもそんなことない、だからこう考えれば大丈夫、そうそう、悪いのはホルモンだから。そうしなきゃ漠然とした不安に勝てなかったし、いつまでたっても「普通」になれないと思っていた。それが正しい治療だと思っていた。いつか絶対治したかった、とにかく治したかった。普通に生活したかった。ありもしないのに。普通なんて。

 

私は小説を読むのをやめ、想像力を邪険に扱っては感覚を閉ざし、感情も社会から私を排他するからと悪者扱いしては罰するようになって、随分と自分を見失ってしまった。

 

 

いい指標になっていると思うのは、創作意欲の衰退。高校を卒業するまでは創作意欲に溢れていたのに、もうすっかりなくなった。何かを見たり聞いたり読んだりして、自分から生まれてくる音楽を形にしたいと思っていたし、その欲求が頼りだったのに、あの感覚がもうずっと昔のことのように感じる。小学生の時に戻れたらいいのにとよく思う。帰路の途中、お気に入りの温かな大きな石の上で寝転んで、ボーッと空想していた。口ずさんだメロディーを忘れないように溢れないように急いで家まで持ち帰って、ピアノに向かって音にして、一人満足していた。いつかちゃんと曲にしよう、技術と機会を得て、形にしてみたい、その希望に突き動かされて生きていたのに。すっかりなくなってしまった。

 

そんな絶望的な気持ちを持ち始めてもう2年以上経つけれど、私の中に音楽はまだ生きているんじゃないかなと人に言われたことがあって、ひどく嬉しかった。今年の夏にノルウェーを訪れた時、フィヨルドを眺めるクルーズ船から、ゴツゴツした岩肌と白いしぶきを上げながらそこを下ってゆく水を見て、音楽が流れた。たくさん流れた。びっくりした。急いでよく持ち歩いている安いPCMレコーダーに録音した。まだ生きているんだなあと思った。一度死んでしまった私の感覚が、少しずつ戻ってきているような気がすることが、留学生活を始めてから度々あるんだけれど、数を重ねるごとに心が潤う感じがしている。

 

私は頭の中に何人もの人がいて、仲良くしたり会議をしたり喧嘩をしたり忙しくしている。メインキャラクターは理性と感情で、サブキャラクターも色々いる。病んでいた頃に常に頭の中にあった真っ黒な何かは、今思うと、傷つけられた感情たちだったのではないかと思ったりする。漠然とした不安や恐怖、とにかく真っ黒で、牙があって、目が赤くて、私の体を刃で傷つける、怖いやつら。あれは、もしかして私が罰して殺そうとした感情たちだったのではないのか。そうすると筋が通る。彼らは私が音楽を生むこと、人と話すこと、非現実に思い馳せること、文章を書くこと、あらゆる表出や現実からの離脱によって許され、解放されているのではないか。

 

 

好きだったはずのことへ興味がなくなるのは悲しくて苦しい。

体の一部をもぎ取られたようだ。

 

私は人と話すのがあんまり得意じゃなくて、世間話で時間を潰すことができない。自分語りをしても、別に満たされない。人の話には滅多に興味を持てない。だからこそ、好きなことというのはいつだって大事だった。音楽を聞くこと、奏でること、絵を描くこと、本を読むこと、物語を書くこと、生き物を観察すること、空想に耽ること。感覚を研ぎ澄まして、想像力をフル活用させることが好きだった。嬉しい、悲しい、楽しい、不安、なんだか気持ちがいい、なんだか不快。感情に身を任せて自分の世界で飛び回っていた。

 

ああ、そんな小さい頃に好きだったことが私を作り上げているのに、私はそれらを無視してしまったのかもしれない。大人になるということを勘違いしていたのかもしれない。いくら理論的に物事を捉えようとしても、理性を信奉しても、きっと私は満たされないんだろう。

 

こんなことを、今朝目覚めた時に考えていた。

 

 

実家のベッドから本が見えて、手を伸ばして手に取ってみたら、どれも重松清の小説だった。全然興味がなくて、元に戻した。私も小説が好きだった頃があったなあ、図書館は数え切れない人の考えや記憶で膨らんだカラフルな風船で埋め尽くされた、夢のような場所だと認識してたなあ、なんて思い出した。

 

人生は失っては何かを得る、その繰り返しだと聞いたことがあるが、失ってはいけないものもあるんじゃないか、そう思った。私は失くしたものを取り戻したい。世界が変えられなくても、自分の世界は変えられるから。私はベッドから身を起こした時、無性に、タイトルも覚えてないあの本の、あの奇麗な女のその後が気になってしまった。