The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

二度目の東京は温かくて、私は冷たい

東京に再度移り住んできて一年が経つ。 

 

一度目の東京は、杉並区だった。環八通り沿いの、うるさくて、暗くて、悲しい2DKに住んでいた。うだる夏の日はコンクリートの照り返しが熱く、冬は木の葉が体を打った。車の排気ガスが臭くて、無理やり植えられた街路樹が苦しそうで、とても嫌いだった。

 

二度目の東京は、調布だ。前より狭い通り沿いの、広くて、明るくて、温かな3LDKに住んでいる。春には、道路沿いに若木が植えられた。一緒にここで大きくなろうね、と思いながら眺めた。秋には、満月が窓から覗く。紫色の空に向かって歩いた。とても好きな家だ。

 

今の暮らしを、続けたいと思っている。毎日がぬるい幸せをまとっている。大したものではないけれど美味しいものが食べられて、可愛い鳥とトカゲがリビングにいて、なんとなく不安も薄れていて、なんとなくこれで良い気がしている。毎晩こだわりの純白ベッドで眠り、毎朝温かな光を浴び、自分に甘い。23度といったところだ。

 

だけど、私の芯は冷たい。私は、これじゃ嫌で、これじゃ物足りないと思っている。目の前の幸せが全部嫌になることがある。

 

私は橋を焼きたい。今ある幸せを捨てたい。

 

今まで、目の前の、触れられる幸せを感じようと努力してきた。お陰で感じるようになってきた。紅茶の香りや、鳥の羽の撫で心地、月光の優しさ、コメディを見て笑うこと、人と気持ちが通じ合うこと。なのに、ふとした瞬間、全て捨てたくなる。

 

イギリスに留学してすぐの頃は、きっと今より満たされていた。新しい人生を始められると思った。知っている人が誰もいない国での生活は、とても心地よかった。愛し合っている相手もいなければ、守るべき存在もなくて、ただ私一人だったのに、それだけで正しいと感じた。

 

あの頃が恋しい。

 

あの頃は、私が私であるだけでよかった。愛してるの言葉も、委ねられた命もなかった。生きる理由なんてなかったけど、私だけでよかった。今はどうだろう。生きているのは理由があるから。私だけじゃいけないのか。

 

私は生きたくなんてない。死ぬことが許されない宿命を受け入れて、生に身を縛り付けただけだ。たまにそのことを思い出す。こじつけのような、陳腐でありきたりな幸せを感じては「これでいいんだ」と自分に言い聞かせている。幸せだなあも、愛してるも、全部ただの自己暗示のような気がする。その響きだけで生きていける気がするなんてのは、錯覚だと思う。

 

東京の街は以前より温かく、優しい。私も元気になってきていると思う。いいことだ。だけど違う。嘘ばかりだ。私は理由なんてなくても、私のために生きたい。焼きたい。