The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

ニート歴が1年を超えたので感想を書きます

0. はじめに

去年の1月半ばに(ほぼ)フルタイムのバイトを辞めてニートになり、1年以上が経過しました。なんとなく書きたくなったので感想を素直に書いてみようと思います。いくつかのテーマに分けて書いてみます。よかったら読んでみてください。こんなニートもいるんだなあ、と。

※去年一年は一応予備校に籍を置いていたのでニート判定が難しいですが、途中からほぼ通えなくなったしニートだったということにしておきます。

 

 

1. 孤独感

紛れもなくありました。子供の頃から一人遊びが好きだったし、友人と親密になることが苦手で好きでもなかった私ですが、それでも途中から「これが孤独か」と感じるようになりました。どこにも属さないため定期的会う人もおらず、気軽に遊びに誘える友人もおらず。会って話す人といえば同居している兄、予備校のスタッフ、精神科医臨床心理士、美容師さんくらいでした。寂しい、友達が欲しい、そういった感情は表面上はありませんでした。あったとしても認められませんでした。だけどなぜかバイトがしたくなったり、フォロワーとオフしたくなったりしました。社会との繋がりを、人との繋がりを求めているのを感じました。困った時相談する相手は第三者だけで、嬉しいことがあっても共有できるのは兄と飼ってるインコとツイッターの青い鳥だけ。私は孤独な自分、孤高の存在、みたいな概念に惹かれません。一人でいることや人と違うことがクールだと感じません。私の場合いつもなぜか気づいたら一人になっていただけで、好んでそうだったわけではないので。性格に問題があるんでしょうが、人に迷惑をかけてはいないと思うし、私もそんなに困っていないからいいやと思っていました。ですがニート歴が長くなるにつれ、人と繋がりたい欲が疼いていることに気づき、「これは困った」と思いました。今まで顕在化してこなかったそんな欲が浮き上がってくるまでに、私は孤独な状態になってしまったのだと思いました。友達がいないことには特に困りません。一人で行きづらいところへ行けないことくらいです。だけど、最近は明確に友達が欲しいなと思うようになりました。自分がこんな風になるなんて今まで想像もしたことがなかったので困惑するし、気持ちが悪いです。ですが、人間が何千年も前から群れで生活していたことを思えば、至極当たり前にも感じるし、この気持ちに素直に向き合って、バイトをするなりスクールに通うなりして、群れを探そうと思っています。

 

 

2. 優越感

この感覚は孤独感ととても仲が悪いです。同居を許さず、いつも喧嘩してばかりでした。去年の春は、順調に4年制大学を卒業した同期たちが労働を始めた春でした。ツイッターのタイムラインに流れてきた大学の元同期たちの卒業式の写真は、今でもフラッシュバックします。あまりに苦しかったです。彼らと違い自分は労働を強いられず、自由に生きている。誰に指図されることもなく、面倒な人付き合いも必要なく、毎日好きな時間に起きて、好きなことをして、好きな時間に眠れる。お金にも困っていない。自分は勝ち組だ。労働を強いられる者たちは可哀想だ。そう思うことも多々ありました。いつの時代も、私のように労働をする必要のないニートこそが自然科学や人文科学を発展させてきたのだ、私もそうしよう、と苦しい理論で自分の境遇や未来を肯定しようとしたりもしました。働かなくていいなら誰だって働きたくないに決まってる、私は働く必要がない、ラッキーで、恵まれている人間なんだ、そう思おうとしました。でも正直、無理でした。スーツやオフィスカジュアルに身を包んだ人たちを見て「働かなくちゃいけないなんて不運な人ね」と見下し、優越感に浸ることができたかというと、できませんでした。第一に、働かざるを得ない事情がある他人を見下すこと自体が間違っていると頭でわかっていました。第二に、私がずっとなりたくて仕方なかった、なれなくて辛くて悲しくて仕方なかったのは、そうやってスーツやオフィスカジュアルに身を包んだ、自身で生計を立てることができる健康な人たちだからです。優越感を感じるどころか、街ゆく労働者たちや大学生たちを見るたびに「居場所があっていいなあ」「仲間がいていいなあ」と感じていました。私はニートになりたくてなったんじゃありません。私がなりたかったのは、彼らでした。

 

 

3. 自由

ニートは"自由"なのか。自由とはなんぞやという難しい話は避けたいところですが、私は自由は制約なしに存在し得ない概念だと思っています。仕事をしていないと"休日"が存在しないのと同じように、制約や抑圧がなければ、それがない状態、つまり自由は存在できないのではないか。ニートといっても、私には確かに「やるべきこと」はありました。家事だとか、大学受験の勉強だとか、通信の志願理由書を書くための読書だとかです。だけど家事を除くものは全て、生きるために必ずしも必要なものではありませんでした。そして、重要なのが、それらを誰も強制してきませんでした。学士号を取るために「すべきこと」を設定したわけですが、学位がなくたって労働はできて、飯が食えます。そしてその設定したタスクだって、誰から課せられたわけでもなく、強制力を伴いません。この一年の制約がなく強制力の働かない生活は、本当に"自由"だったのか。私は違うと思います。学生や社会人から見ると彼らの持つ制約が私には課せられていないわけですから、"自由"に見えたかもしれません。しかし、実際の私の生活は、目に見えない抑圧で毎日押しつぶされそうでした。周りはみんな働いている、周りはみんな学位を持っている、周りのみんな仲間がいて楽しそうだ、私は履歴書が汚い、結果初めてバイトの面接に連続で落ちる、私の人材市場価値は最低だ、私は人と違う、違うのは悪いことじゃない、だけど侮蔑や忌避の対象になるに決まってる、好きでこうじゃないのに、どうして。毎日がそんな気持ちとの戦いでした。これが自由なのか?生活は確かに自由だったかもしれません。だけど精神的には不自由で、不安定でした。私は幸せになってはいけないと思っていたので自分の幸福感を否定しがちでした。私は慎ましく生きないといけないダメな人間だからと節制を試みました。

私は子供の頃から制約を受けることが嫌いでした。女の子らしい服を着ることも、赤いランドセルを使うことも、身なりに関する校則を守ることも、歩幅を合わせることも、友達に合わせて興味のない映画を見ることも、何もかも大嫌いでした。その頃の私が求めていた自由は今手に入れました。誰も私の身なりにも歩幅にも口を出しません。青髪をオールバックにして、ダメージジーンズを履いて毎日暮らしています。だけどその自由の代わりに握らされたのが目も当てられない履歴書だったなんて、高校生の頃の私に教えたら、間違いなく高校をサボるのをやめたと思います。

 

 

4. 未来

ニートにも色々います。固定資産がある真の勝ち組ニートもいれば、一時期に働いて貯めた金を切り崩しながら生きるニートもいるし、私のように限りある親の資本で生きるニートもいます。最初のタイプはレアなケースなので置いておいて、それ以外のタイプのニートはみな大なり小なり未来に対して不安を抱いていると思います。私の場合は、未来に関しては希望を持っていましたし、今も持っています。まだ23なので、学位を取って、そこから働き出すことが可能だと信じているからです。それに、自分が労働しようと思えばきちんとできる能力を持っていることは経験から知っているからです。いくら現実味がないものでも夢を持つことは恥ではないと思うので書くと、夢は海外の大学院で研究をすることです。4年前に最初の大学を適応障害で中退して以来秘めて持ち続けてきた夢です。諦めるつもりは当分ないし、もし快調に進学するのは無理でも、大学院進学なら働き出した後でも可能かもしれません。財力に関しては、私はお金持ちになれないのだという前提で生きています。なので、財力に関する上昇志向や期待はなく、それに伴いそこまで恐怖もありません。もし限界になっても、死ぬ、兄姉に頼る、バイトで生きる、生活保護を受ける、など選択肢は色々あるので、あまり心配はありません。総て、私は未来が楽しみです。大きな期待もしておらず、大きな不安もなく、安定したマインドセットで未来に向き合えていると思います。この状態を損なわず、これからも夢や大小の目標とともに生きていこうと思います。

 

 

5. 自尊心

ニートになって、自尊心はかなり傷つき、もう原形をとどめていません。プライドなんて、もうとっくに粉々です。18歳で上京した頃は意気揚々としていました。いじめとDQNの蔓延る田舎の小中学校を出て都会の高校に進学、高校の定期考査ではいつも学年の下から数えた方が早いくらいの順位を叩き出していたのに、模試には少し強かったため大して勉強もせず、理想とは程遠かったもののそれなりの大学に合格し、そりゃあもうプライドの高い方だったと思います。しかしそこからの転落劇は笑えます。まず大学に行けなくなりボロボロになりました。不本意にもフリーターやニートを繰り返し、それでも洗わずに放置したグラスにこびりついた水垢のようなプライドを持って海外の大学に進学し、また心身を壊して中退、グラスは割れました。心ここに在らずのままフリーターをした後、グラスの破片を拾い集めて再度大学受験に臨むものの、相変わらずの不安障害に加え婦人疾患が発覚した完全に通学への自信を喪失して挑戦を断念。グラスの破片は風に乗って消えてしまいました。今はもうほぼ何もありません。破片とも呼べないガラスの粉が目の中に入っていて、たまに痛む程度です。もう誰にどう思われてもどうでもいい。私がしたいように生きる。少しずつそう思えるようになってきているのはそのお陰でもあります。自尊心というのは他人との比較の上にしか成り立ちません。私は比較をやめた、というか諦めたのだと思います。ここまで辿り着くまで苦しい道のりでしたが、結果的にはこれでよかったんだと思います。今まで持っていた自尊心は消えましたが、代わりに新しい価値観を手に入れたと思っているからです。それは「私は私でいい」というシンプルなものです。シンプルこそ難しいもので、その考え方を身につけるのは本当に大変でした。だけど、結構いい感じに、手に入ったと思っています。これでよかったんだと思います。

 

 

6. 最後に

ここまで書いておいてアレですが、ニートと自称するのはあまり好きではありません。肩書きは必ずしも必要なものではないし、それにニートってなんだかネガティブな印象を与える言葉だからです。ニートの状態にある人をポジティブに評価する際に使われることより、逆の評価をする際に使われることの方が多いのではないかと思います。だからって「夢追い人」とか気持ち悪い呼び方をされたいわけではないですが、ただ、ニートの語意に当てはまる状態に陥っていることをあまりその語を使って馬鹿にしたり蔑んだりしないでほしいなと思います。固定資産で食っていようが、何歳になっても親の脛をかじっていようが、まともな職に就かずフラフラしていようが、いいですよね、個人の選択に他人が口を出すのは余計なお世話です。私のブログを読んでいるような人たちはある程度頭のいい人たちで、良識があるのかなと予想しますが、世の中には本当に価値観が凝り固まっていて視野の狭い、押し付けがましい、図々しい人たちがいます。私が嫌いで怖いのはそんな人たちです。他人には他人の事情があるのに考慮せず、自分の考え方を押し付けてくる人たちです。権力には媚びへつらい、マジョリティの自覚もなく、共感力に欠ける。そんな人たちの境遇や価値観に対しても私は口を出すつもりはありませんが、そうやって耐え続けて、傷つき続けるのは私です。なんとも悲しいことです。学校や会社に通っていない、通えない、それだけで差別されがちなニートのみなさんが、どうかなるべく優しい人たちに出会って、幸せになってほしい。そう願ってやみません。そして、私は無力だから嫌な奴を懲らしめることはできないけど、嫌な奴らが全員社会的に死んだ後肉体的にも(略) 今年の春からは、上手くいけば慶應の通信課程で学び始める予定です。肩書きにこだわるならば、一応学生になるわけです。晴れてニートも卒業です。バイトもほどほどにして勉強に集中するつもりです。ニートでいることが恥ずかしいわけではないけど、散々書いてきた通り、孤独感や不安定感にはもう懲り懲りなので、それから少しでも脱することができるなら万歳です。これで不合格となるとかなり困るので、志望理由書の執筆を頑張ります。書評を書かなくてはいけないのですが、じっくり読んでいるし計画遂行力が低いのでなかなか進みません(汗)しかし頑張ります。この記事を読んでくれたニートの皆さんも、非ニートの皆さんも、それぞれ置かれた環境の中で、少しでも楽しく生きられるように共に進んでいきましょうね。ご拝読をありがとうございました。

 

おわり