The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

私のわからないもの 友達

私は今、「友達」というものがわかりません。

私には「友達」が確かにいました。小学生の時は、学校にも習い事先にも「友達」がいて、幼稚園の頃以来の「親友」さえもいました。中学の時も、学校や塾にいました。吹奏楽部の仲間は大切な存在でした。高校の時もいました。クラスのみんなや他のクラスの人、軽音部の人たち、みんなを「友達」と呼んでいました。

私は何の問題もなく、上手くやっていました。むしろ友達が多いとか、社交的だとか言われていました。私は自分はコミュニケーション能力が高い方なのだと思っていました。誰とでも仲良くなれたし、人をまとめることもできました。私のことを面白いねと言ってくれる人が、誰かしらそばにいてくれました。(軽いいじめも受けていましたが、その話は文脈上不必要なので避けます。)

でも今の私は、「自分に友達はいない」と感じています。小中高、また大学で友達だった人たちを誰一人として「友達」だと思えません。私のことを友達だと認識してくれている人にはとても悪いなと思います。だけど、嫌いだとか、飽きたとか、つまらないとか、そんなのじゃなくて、ただ私には理解できない感じがします。友達って、どう繋がっていたらいいんですか?どこからが友達で、知り合いで、恋人で、セックスフレンドなんですか?

 

私には幼少期から自分だけの世界がありました。他人が誰も干渉してこない、私だけの想像の世界がありました。そこでは、私の持っているイメージや音や匂いや感触を自由に取り出して組み合わせて、遊ぶことができました。一日の終わりにその日に入手した情報をポケットから取り出して、見て、触って、笑ったり、時には泣いたりしました。そういった一人の時間が私は本当に好きでした。空を見ながらブツブツ独り言を言ったり、歌を思うがままに歌ったり、詩を書いたり、生き物や植物に話しかけたり、絵に描いた夢見がちな少女みたいなことをやっていました。音楽は一番の遊び相手でした。いろんな景色や感情を教えてくれて、音楽プレイヤーがあれば外にいてもいつでも楽しい世界を提供してくれました。

私の居場所はそこでした。学校で人と話す私は、あくまで「人と話す私」であって、私ではありませんでした。社会生活を送っている人間なら全員が大なり小なり自分を環境に順応させて変えているものと思いますが、私はその順応が過剰だった気がします。家に帰ると、学校の友達に会いたいなんてほとんど思いませんでした。話したいことがあってメールやLINEをすることはありました。でも、女の子たちを誘い合わせて遊びに行くのは気が進みませんでした。実際よく断っていて、人付き合いが悪かったと思います。私は女の子のグループでワイワイするのが今も昔も苦手です。遊びの誘いにも乗らないし、つまらなさそうな顔をしてしまうので、悪印象を与えると思います。いつもなんとなく所属している女の子のグループがあったけど、わからない話が始まると一人で本を読んでいました。ノリが悪いと思われていたと思います。

学校社会は学校社会、私だけの世界は私だけのもの、まったくの別物に感じていたし、私だけの世界のメインアクターである音楽の話は、あまり人にしませんでした。大事な音楽が、苦手な他人の記憶で汚れるのが嫌でした。それは今もそうです。人と音楽の話をすると、その音楽がその相手のイメージを吸収するので、相手との関係が壊れれば、その音楽も壊れます。悲しみや戸惑いのノイズが強すぎて、聞けなくなってしまいます。だから、人が苦手な私は、音楽の話題で人とコミュニケーションが取れません。音楽は私にとって基本的にコミュニケーションの対象であって、媒体ではありません。音楽活動をしようとしたら、好きな音楽を共有したり、自分の音楽を人に聞かせて感想をもらったりしなくちゃいけません。興味のない音楽をやってる人とも話さないといけないかもしれません。そんなことが、私はできる気がしません。大学に入った時に音楽系のサークルに顔を出してみましたが、詳しくは覚えてないけど、とにかく苦痛の方が多かったです。人間関係が嫌で、不安で、疲れて、音楽どころではありませんでした。音楽活動はコミュニケーションなのだとつくづく感じました。私は一人で聞いて、一人で作って、それでいいやと思いました。

 

私は高校を卒業して以来、東京→イギリス→福岡→東京と転々としてきました。だから当然のこと、頻繁に会う友達なんていません。この4年間、ほとんどの時間を一人で過ごしてきたと思います。ゆえに、自分だけの世界に浸っている時間の方が長くなりました。そして、「社会向けの私」は各地で製造され、私は随分と分裂してきました。上手く説明できないんですが、私は、私をいろんなところに置いてきた感じがします。去年以降、私は時々解離状態になります。見える景色が現実味を失うというか、自分の魂が抜けたような感覚になります。自分の体が自分の体に感じず、家族が他人に、見える人間たちが現象、または動く肉に見えます。目に映る全てが、ただの映像になります。私は「自分の回収作業」として、福岡にいる時東京へ出向いてみたり、イギリスにいた時のことを鮮明に思い出す作業をしたり、地元の思い出の場所を訪れたりしました。そのおかげではない気もするけど、解離する頻度は落ちたし、かなりマシになりました。でもまだ時々起きるし、人と話して自分が自分じゃなくなる感覚になるのが嫌で、人と関わりたくないと強く思うようになってしまいました。この、人と話す時に自分を変えすぎる、結局自分の帰属先はないのだという感覚がある、解離をする、というのが、アスペルガーっぽいものだというのが最近わかって嬉しいんですが、このことは省略します。

このようにして、私はこの数年間でかなり対人に関して恐れや苦手意識が強まってしまいました。元々人との距離の取り方が上手くはなかった上に、単純に人と接する機会が減りすぎたというのがあると思います。

 

あとは、恋愛をするようになったのも原因と思います。私は小中高の間、異性と付き合ったことがありません。そもそも6歳の頃仲良しだった男の子たちにハブられてから18歳までの間、異性は極度に苦手で、話すのも触れるのも嫌でした。誰に告白されても、頑張って憧れの人とのデートにこぎつけて告白してもらっても、結局気持ち悪くて受け入れられませんでした。でも大学に入るとことは一変して、ある人がきっかけで恋愛なるものを始めました。しかし、上手くはいきませんでした。付き合った人には振られるし、好きになった人とはセフレみたいな関係で終わるし、異性との距離の取り方がわからないままです。私は異性を拒否していた時間が長すぎたゆえに、"異性の友達"という感覚が欠落しているのだと感じます。異性のことは、恋愛対象として見ないことには深く知ろうと思えません。魅力を感じなければあまり関わりません。むしろ魅力を感じれば、わりかしすぐ好きになって、寝てもいいやと思ってしまいます。その先も、そばにいてくれるのだと信じてしまいます。最近そのメカニズムに気づいてしまい、困っているところです。

 

同性は昔から苦手で友達らしい友達づきあいができない、その場限りのお喋りならできても心開けないし、家に帰るとまるで他人になってしまう。異性との駆け引きみたいなものは難しくて、距離感も掴めなくて、なんだか傷ついてばかり。私は今もう、家族以外の人間とどう関わっていいかが全くわかりません。あまりに対人能力に自信を失っていて、一人の時間も多いゆえに、この世に「友達」がいる感覚なんて、遠く彼方へ消えてしまいました。どれくらいの頻度で話せば友達なのか、過去の友達は今も友達なのか、彼等はもう私のことなんて忘れてしまったのではないか、彼等の知っている私は対人用の私、それなのに、本当に「友達」なのか。「友達」はキスやセックスをするものなのか。私には「友達」についてわからないことがありすぎます。

 

一人は楽だし、自分の世界は幸せです。一人で博物館へ行けば世界一幸せな気分になれます。映画を見れば、現実から逃れられます。一人で空を眺めて風を感じれば、人間社会の一部である前に宇宙の一部なのだと思えて満たされます。けれど、昔から感じてきた疎外感や孤独感も確かに心の内に感じます。

 

最近、『アスパーガール』(ルディ・シモン著)を読んで、自分はアスペルガーの傾向が強いとわかりました。やっと大学に行けなくなった理由が明らかになったし、対処・改善の方法を考えやすくなったので、とても嬉しく感じています。けれど同時に、自分の対人スキルがポテンシャル的に低いこと、対人に関する感覚がズレていること、そのことでこれからも苦労するのだということを痛感して、気持ちに靄がかかっています。私は社交的でコミュニケーション能力が高いはずだったのに、本当は無理していたからそう見えていただけだったのだ、これからは無理せず人と関わっていくやり方を探っていかなくては、私は大学や職場に馴染めないのだ、また、不適合を起こすのだ。そう思うと、怖いし、不安だし、悲しくなります。

 

これからどれくらいの努力を重ねれば、私は対人問題でこんなに悩まない日々を迎えることになるんでしょうか。いつになったら会った翌日にひどく疲れて落ち込まなくて済む、心開ける大切な人に、出会えるんでしょうか。いつになったら「私はこの人たちの『友達』なんだな」という帰属感を感じながら、複数人の人間の輪の中に身を置けるんでしょうか。

それらは、本当に必要なんでしょうか。

私にはわかりません。