The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

私について

はじめまして、奥です。

このブログでは、イギリスでの留学生活について書いていこうと思っています。

方向性は特に決めていません。気軽に書いていこうと思います。

 

これは最初の記事なので、私自身について書こうと思います。長くなります。

 

私は2016年の1月からイギリスのノリッヂ(Norwich)にあるイーストアングリア大学(University of East Anglia, 通称UEA)のファウンデーションコースを開始しました。ファウンデーションコースとは、イギリスの大学に入るために留学生が取らなければならない約1年間のコースです。他にも色んな入学、編入ルートがありますし、イギリスの教育制度の違いなどもこのコースの説明には絡んできますが、今回はすべて省略します。いずれコースや学習環境について書こうと思っています。

 

1月2日に家族でおせちを食べ、お屠蘇を飲んで、猫を撫でて、いつもの車で福岡空港へ向かい、ギリギリで日本円をポンドへ替え、偶然航空会社のデスクで働いていた高校の先輩と昔話をして、ギリギリでゲートへ向かい、16時間の長い長いフライトと乗り換えを経てノリッヂ空港に到着し、ホストマザーと慣れないハグを交わし、空港から家までの車で"Everything is new to me"と呟いてから、早くも5ヶ月が過ぎました。

 

たった5ヶ月の間に色んなことがありましたが、どんなに苦労から生まれる不安や憂鬱も、過去にあったそれらと比べればずっと生温く、むしろモチベーションに変換できる程度のものだったように感じます。

 

というのも、ここに至るまでの2年間は私の人生で最も暗い2年間だったからです。

 

2014年の春、私は晴れて大学生になりました。入学当初は勉強も楽しい、面白いサークルも見つけた、友達もいる、憧れていた東京の街は魅力的、アルバイトも楽しい、何の問題もないように見えました。怖いものなど何もなく、ただただ現在と未来が輝いて見えていました。けれど少しずつ、目に見えない歯車のネジが取れていきました。私は自分の心と体に異変を感じるようになりました。大学に行きたい、勉強がしたい、サークル活動もしたい、それなのにしたくない、出来ない、体が動かない。体に鞭を打って学校に行っても、頭痛や吐き気、呼吸の苦しさを感じるようになりました。

 

学校へ行っていない、という事実がさらに私の首を締め付けました。両親に高い入学金や授業料を払ってもらって、安くない部屋を借り生活しているというのに、義務を果たしていない自分を責めることがやめられませんでした。自分に何が起きているのか理解できず、ひたすら苦しみました。

 

止まらない自責、自己嫌悪、自信喪失、絶望、希死念慮、そんな黒くて重い感情と、勉強がしたい、学校に行きたい、行かなければいけない、私なら大丈夫、元の自分に戻れる、頑張りたい、頑張りたい、頑張りたい、そんな本来の私らしい感情が、いつも頭の中で戦っていました。

 

そんな抗いも虚しく状態は悪化していくばかりで、気づけば、強すぎる自責とあまりの心臓の痛み、生きている心地のしなさからか、自傷行為まで始めていました。今思うと本当に恥ずかしいのですが、その写真をSNSに載せたりもしました。当然誹謗中傷を受けましたが、同じことをしている人がいたことや、反応を得られるのが承認欲求を満たしたのか、やめられませんでした。

 

しかし、その異常性への自覚と、早く治したいという気持ちから、勇気を出して精神科へ通うことにしました。それが7月のことでした。

 

精神科の先生はとても優しい女性の先生で、安心して通うことができました。抗鬱剤向精神薬睡眠薬も、弱いものを少量だけ処方してくれました。薬漬けにはなりたくなかったので、先生の決断には感謝しています。しかし薬で簡単に治るものでもなく、戦いは続きました。自傷行為は悪化し腕の傷は広く深くなり、オーバードーズをしたり、ベッドから落ちて痣を作ったり、頭を気分が悪くなるまで床に打ち付けたり、ベランダから落ちようとしたり、洗剤を飲んだり、首を切ったり、国道沿いの植物の葉や紫陽花の葉を食べたり(笑)、色んなことをしました。それでも鬱は、抜けません。

 

それらの症状から、私は適応障害と断定されました。特定の環境、社会集団に適応できず、仕事や学業に支障をきたすストレス障害の一種です。他にもパニック障害の症状もありましたが、大学休学のための診断書に書いてもらったのは適応障害のみでした。「適応障害」という文字列は私を傷つけました。社会に適応できないという病気。一気に社会から追い出された気持ちになりました。ただでさえ異常な精神状態だったので、その文字列から受けたショック、疎外感、絶望感は凄まじいものでした。

 

病名を得られたことを問題解決の糸口を得られたことと解釈し、前向きに捉えようともしました。ひたすら治療方法をインターネットで調べました。カウンセリングも受けました。そして至った結論は、とにかく家を出るためにアルバイトをすることでした。大学へは行けなくても、海外旅行の資金を稼ぐためのアルバイトなら行ける、と思いました。そして8月の終わりからアルバイトを2つ始めました。アルバイトは順調でした。どちらもとても楽しくて、体がつらくても続けられました。しかし、それでも鬱は抜けません。

 

そして9月、ロンドン・パリへの旅行へ行きました。短かったけどとても充実していたし、大学へ戻ったら高校時代の計画通り留学しよう、そのために治療を頑張ろう、と改めて思いました。友達と行ったのですが、一緒に旅行に行ってくれるような友達がいること、親の力なしでも海外旅行へ行けたことは、自信に繋がりました。しかし、残念ながら好転の兆しはありませんでした。

 

当時、兄と一緒に生活をしていたのですが、兄はいつも私を支えてくれました。両親へは心配をかけたくないから言わないでほしい、というお願いも聞いてくれました。私がご飯を食べることさえ出来ない日はご飯を作ってくれたし、起きれない朝は腕を引っ張って起こしてくれました。ほぼ介護です。1日中ベッドで寝て、麻薬のようなUS-POPをリピート再生し続ける私を、「それ聞き飽きたもうやめて!」と言いながらもいつも助けてくれました。そんな大好きな兄に自傷行為をやめなよと言われても、無理でした。カッターを隠されたら包丁を使い、カッターも包丁もどちらも兄の職場に持って行かれたら、コンビニで新しいカッターを買って切りました。それが確か11月ごろで、もう、私は限界に達していました。生きる目的になっていたアルバイトに行くことさえ、苦しく感じるようになりました。

 

そんな時、遂に私は両親へ助けを求めました。いつ頃だったかも、なんとメッセージを送ったかも覚えていませんが、とても悔しくて、恥ずかしくて、悲しくて、申し訳なかったこと、母親からもらった言葉の優しさがまた胸を締め付けたことは覚えています。それから、たった1つだけ、ネジが嵌ったような感覚もありました。その後、母がすぐに福岡から東京へ駆けつけてくれました。

 

一緒に精神科へ行き、解決策を求めました。私の「もう限界で、まともな生活ができない、療養施設に入れて欲しい、もうあの場所に住めない。」というお願いに対して、帰ってきた答えは、私の想像とは違っていました。先生から提案されたのは、閉鎖病棟への入院、もしくは、福岡で保護者の観察下、精神科病院への通院。首への自傷行為は自殺未遂と受け取られるので快適な療養施設は入所不能とのことでした。

 

私はその二つの選択肢を与えられた時、気が狂いました。閉鎖病棟なんて死んでも行きたくない、それに絶対に福岡になんて帰りたくない、夢と目標を抱え上京してきて、ここまで頑張ってきたのに諦められない、東京に負けたくない、でも与えられたのはたった二つの道、もうどこにも行き場がない、私に生きる場所はない、もうどうしていいかわからない。

 

先生と母は私を実家に送還する決断を下しましたが、私は口をつぐみ、完全に不貞腐れました。病院からJR高円寺駅までの道のりでも、私は一言も喋りませんでした。そして駅に着いた瞬間、私は母を置いて走り出しました。どこへ走って行ったか覚えていませんが、母親が追ってこられないところまで逃げて、地面に座り込み、死ぬことを考えていました。母親から「どこにいるの」「お願い返事をして」とメッセージが来ても無視しました。わがままな10歳の子供のようでした。結局母に発見され、一言も言葉を発さず家まで帰り、帰宅してすぐにベッドへ潜り込み、聞こえないように声を殺して泣きました。私が逃亡していた時、ちょうどJR中央線では人身事故が起きて電車が遅れていたらしく、母はひどく心配したそうです。娘が身を投げたかもしれないだなんて、それはもう怖かっただろうと思います。とても悪いことをしたなと思っています。

 

その後、改めて先生と母が話し合った結果、母が東京でしばらく暮らす、ということになりました。そして新しい生活が始まりました。

 

介護の役目は兄から母に受け継がれました。簡単な料理やインスタント食品に慣れていた私と兄は、母の懐かしくて美味しい料理に、毎日大喜びしました。部屋は整理され、お風呂場や洗面所は磨かれ、冷蔵庫の中は実家のように賑やかになり、生活の質が一気に向上しました(笑)。

 

母も、1人で上野の国立科学博物館に行ったり、新宿のデパートでお買い物をしたりと、母なりに東京生活を楽しんでいたので私も安心しました。聖母のように優しくて、可愛くてド天然の母との生活は毎日本当に楽しくて、心から癒されました。福岡と違って複雑な電車も、(最初は何度も迷って人に聞いたらしいけど、)今や完璧に乗りこなせるようになったよと得意げにしている母を見て、この人のためなら何でも頑張れるなと思いました。母もきっと、同じことを私に思ってくれているのだろうと、その時やっと気づきました。両親、家族に対する認識が、私の中で大きく変わりました。自分を大切にすることが、大事な人を大切にすることでもあるのだと知りました。少し、成長できたのかもしれないと感じました。

 

その期間、両親の決断でアルバイトはきちんと回復するまでお休みすることになり、ひたすらダラダラする生活を送りました。「ダラダラすること」が治療でした。実際はずーっとダラダラしていたのですが、それは「許されざるダラダラ」であり、黒く重い感情の出処だったのです。私に足りなかったのは「肩の力を抜くこと」でした。強すぎる責任感と高すぎる理想が私を蝕み、殺そうとしていました。私に必要だったのは、「まあ仕方ないか、なんとかなる、大丈夫」と物事を楽観視する心の余裕、ストレスと上手に付き合う術でした。それらを育むため、「何もしなくていいんだ」「これが正しいんだ」と言い聞かせながら「肯定されたダラダラ」を実行しました。

 

腕の傷の治療のために病院へも通い始めました。腕の自傷跡を目立たなくするため、ケロイド部分を切り取る手術をし、初めての入院も経験しました。自傷跡を親に見せるのは、とても心苦しいことでした。大事に育ててもらった体を自ら傷つけるなど、度の過ぎる親不孝だと思っていました。それでも、両親は受け入れて、私が少しでも元気になるようにと治療を推し進めてくれました。

 

父も母もきょうだいも、責めたり、変に優しくなったり、気を遣ったり、そんな態度はまったく私に見せませんでした。ただ、受け入れて、応援してくれました。恥ずかしくて嬉しくて、悔しくて有難くて。私を縛りつけていた不安や恐怖が、家族の無償の愛情に触れて、少しずつ解けていくようでした。そして少しずつ変わっていく自分の心とひたすら向き合い続けました。たくさんたくさん自分という人間について考えました。

 

母は「無理して大学に行かなくてもいいよ、あすかには向いてないんじゃないの?」とまで言ってくれました。頑固な私は「絶対に辞めたくない、来年からまた頑張る。」と意地を張り続けました。そして2015年の春、大学生活を再スタートさせました。が、長くは続きませんでした。治療期間にリハビリのため大学を訪れたりした努力も水の泡となり、新学期も学校内での心身の不調に苦しみ、ここは私の居場所ではないという強い感覚に苛まれました。そして、鸚鵡返ししかしない大学付属の心理カウンセラーとのカウンセリング中、あまりにイライラした反動で「じゃあもういいです、辞めます。」と宣言し、その後2週間ほど親に退学の決心を告げる勇気を蓄えるのに費やし、なんとか告白、待っていたかのような「わかった、あすかが決めたようにしなさい。」という許しを得て、5月末に退学届を提出しました。

 

退学直後は国内の大学を目指そうと計画していたものの、もう日本の大学に通える自信がなかったこと、いずれ海外留学をしようと思っていたしそれならいっそ海外の大学へ行った方がいいのではないかと思ったこと、イギリスの開発学にとても興味があったことなどから、イギリス留学を決めました。この決断には両親も少し戸惑っていましたが、私が一度決めたことは貫く性格だと知っていてか、渋々承諾してくれました。費用も高いし、精神的にまだ不安定な娘を海外にやるなんて、不安だったろうと思います。それでも、やりたいことをさせてくれた両親への感謝と尊敬でいっぱいです。

 

そんなこんなで、2015年の春以降は、留学準備をしました。社会復帰の訓練のためにアルバイトに復活し、British CouncilやSI-UKのIELTS対策のグループレッスンに通い、渋谷の有料自習室に足を運んだり、都内の綺麗な図書館を巡ったりもし、それなりに充実した日々を送りました。

 

アルバイト先の店長さんは、私が病を抱えていることも承知の上で、雇い続けてくれました。さらには私の体調を心配したり、応援までしてくれました。アルバイトの休止を決めた時、正直に自分の状況を話して辞めるしかないと思ったのですが、店長さんもまた、受け入れてくれたのです。辞めないでほしい、元気になるまで待ってるから、また一緒にお店で働いてほしい、と言ってくれました。私は居場所が与えられたような気がして、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。私にとってすまし顔と孤独の街だった渋谷にも、こんな温かい人と場所が存在するのだと知り、私にとって戦場でしかなかった東京への見方が少し変わりました。

 

そうして比較的穏やかに日々は過ぎ、2015年もいつの間にか終わりを迎えました。12月の末には福岡へ帰り、気持ちの整理をしてから、イギリスへ飛び立ちました。

 

 

 

こうやって全て書いてみると、あの2年間は、短くて、遠い、そして濃い、ずっと昔の思い出のように感じます。正体不明の闇と戦っている時に、「この苦しみも過去に変わる、いつか笑って話せるのだ、今は耐えろ、頑張れ!」と言い聞かせていたことを思い出します。自己完結はしていても、人にどうやって打ち明けていいかわからないし、腕の傷もくっきり残っていて半袖が着られないことに悩んだりするし、まだまだ完全に消化しきれてるわけではないけれど、こんな過去の物語のように書けることが幸せです。

 

私は今、とても幸せです。

 

あの2年間を無駄にしたくなくて、意義を見出そうとたくさん考えてきました。私は本当にたくさんたくさん考えたなと思います。そして、自分なりに答えは幾つか出せたと思っています。だからこそ、今幸せを感じることができるのだと思います。

 

あの時期に考えたことすべてが、今私のやっている勉強とこれからやりたい勉強のモチベーションになっているし、現時点の人生の目標への道程を明るく照らしてくれています。また、新しい疑問を私に投げかけてもくれます。あの時間が私自身と向き合う貴重な機会をくれたし、家族の愛情を教えてくれました。社会の厳しさも、人の優しさも教えてくれました。一度社会から投げ出された経験は、人間と社会への関心を強め、見えづらいけれど確実に存在する社会的弱者の存在への意識を強めてくれました。

 

鬱のお陰で、大好きだった音楽もどうでもよくなり、何もかもへの好奇心を失ってしまい、毎日嘆き苦しんだけど、結果的には、少し形は違うけれども更に強い好奇心を生んだので、何も無駄なことはなかったと言えます。好奇心は、私の生きる糧です。これからもずっと持ち続けていきます。

 

それに、今までよりも、傷ついている人や弱っている人への共感力が強まったと感じます。"鈍感力"が必要とされるストレス社会で、自他の感情に敏感すぎて生きづらさを感じる人たちに、心を寄せることができるようになりました。人の悲しみや喜びを自分のことのように感じる能力を、不要だと邪険に扱うのではなく、私は使いこなしたいと考えるようになりました。その意志が今の将来の夢を支えています。

 

今でも時々、あの頃を思い出して色んな気持ちになりますが、その頻度も減ってきました。私の中で過去の比重より、未来の比重の方が重くなってきています。これはとても良い変化だと思います。

 

過去は変えられなくても、過去に対する捉え方は変えられる、それ次第で現在も未来も変えられるのだと思っています。

 

過去を疎ましいもの、忘れたいものと扱えば、それはただの肩の荷として私の中で在り続けるだけです。でも過去を受け止めて自分を分析する材料にすれば、それはエネルギーとして昇華できます。過去の事象から浮かびあがる自己は不確かで、たくさんの疑問が生まれます、「どうして私はこんなに弱いんだ」「人を信じることはどうしてこうも難しいんだ」「私が本当にしたいことはなんなんだ」。でもそれらの疑問は、少なからず私にとって、エネルギーになりえます。はっきりしないことは嫌いなのです。わからないことは知りたいのです。もし、知りたいと思わないことがあったなら、なぜ知りたいと思わないのか知りたいのです。

 

 

私なんかが適応障害を克服できたから、誰だってすぐ克服できる!だなんて言えません、その治療過程は人によって大きく異なると思うし、軽度だった私でさえひどく苦しい思いをしました。だけど一つだけ言えるのは、必ずいつか治るということです。

 

もしも、ほぼないと思うけど、ストレス障害を抱えている人がこの文章を読んでくれたなら、私はその、病気について調べている行為を讃えたいと思います、治したいという気持ちが病を治します、病は気からという言葉はある意味科学的にも証明されているし、安心してもがき続けて欲しいなと思います。私が克服できたのは治したい一心でもがき続けた私自身の努力と、家族や周りの人の支え、二つの柱があったからだと思います(昔から自分の努力を認められない性格だったので、こうやって認められているのはかなりの進歩です!)。ストレス障害になる人は他の不安障害などを併発しやすく、それらの病気にかかる人たちには性格にもパターンがあります。きっと私と似ている人なんだろうなと思うし、きっと治療に精を出していると思います。いっぱい無理をして、自分を責めて、努力にも裏切られて、絶望の淵にいるかもしれません。そんな人たちを私は心から応援するし、何か聞きたいこと、人に言えないけど話したいことがあったら、コメントして欲しいなと思います。

 

世の中には、思ったより自分を受け入れてくれる人がいます。物事を見る目が悲しみで曇ってしまって見えていないだけで、優しい人や心を開いてくれる人はたくさんいるし、ゴミクズのように感じる自分の中にもいいところはたくさんあります。

 

悲しみは無敵ではありません、彼らを倒す方法は2つあると思っています。1つ目はセロトニンを分泌させることです、悲しみも所詮セロトニンには勝てません。簡単に分泌させられないけれど、努力するしかありません。努力しない、という努力も時には必要です。2つ目は支えを得ることです。私は家族が一番効果的だと思いますが、誰でもいいから信頼できる人に話すこと、支えを得ることは不可欠な治療だと思います。人と話すことで得るものは想像以上です、むしろ外部の干渉がなければ、苦しみのループから抜け出すことは不可能だとさえ思います。誰でもいいから話す、信頼できる人に話す、第三者でもいいから、考えていることを話して、もし有益な情報を得られなかったとしても、喋っているうちに気持ちがまとまったりするし、相手の反応から新しい視点や価値観に出会えたりもするし、むしろそちらの方が大事だと思います。

そうやって身体的アプローチと、精神的アプローチを同時に進めていけば、曇ったレンズは少しずつ元に戻っていき心に余裕も出て、社会復帰も可能になると思います。

 

精神を病むのは決して本人のせいではないと思います。誰のせいでもないし、もしストレス源が誰か他人だったとしても、相手を責めたところで治るわけがないです。大事なのは治療を諦めないことだと思っています。私は諦めなくてよかったと心から思うし、もしまた精神を病んでも、決して諦めないと思います。今だから胸を張って言えるけど、人生、なんとかなります。むしろ、自分の人生最高です、万歳、生きててよかった、生命最高です。

 

 

 

 

 

病気の話で終わったけど、これは一応留学生活日記です!笑

 

 

でも時々こんなことも書いちゃうと思います。うーん、ブログの未来が読めない。あと眠くて文章もうまく読めません。思ったより時間をかけてしまってもう夜中の3時半なので、寝ます。おやすみなさーい。