The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

二度も大学中退に至った原因を考えてみる

 今日はなぜ自分が二度の大学中退を経験することになったのかを考えて書き出してみようと思います。

 

 私は都内の私立大学とイギリスの中堅大学を1年も経たずに中退しています。直接的なきっかけとなったのは一度目が適応障害、二度目が不安障害、それらに伴う通学に対する自信の喪失、新しい環境に対する期待でした。ですが、そもそもなぜ適応障害や不安障害になってしまったのか、そこがわからないことには次回に生かすことができないので、書き出しながら整理してみようと思います。

 

 

1. 先延ばし癖

 これが一番の原因だと思っています。何でも発達障害の特性のせいにする気はないですが、正直この癖がなければ中退していませんでした。私は何もかも先延ばしをします。皿洗いも、洗濯も、お風呂も、メイク落としも、スケジュール管理も、出発も、勉強も、何もかもです。厄介なのは、好きなことや楽しみなことほど先延ばしにするところです。私は高校卒業後、大学での勉強をかなり楽しみにしていました。高校と違い「自分で選んだ学問」をやれるし選択した自分の責任が伴うのだから、自発的に頑張ろう、楽しもう!と張り切っていました。それが逆効果でした。楽しみなことを後回しにし続けるせいで与えられた課題に辿り着くのは至難のわざでした。高校までは家事をする必要がなかったし、出発でも寝る準備でも宿題でも、急かしてくれる親がいました。その人がいなくなった途端、私の生活は崩落していきました。

 

2. 完璧主義

 私は間違いなく完璧主義者です。自分の思う通りに、完璧に物事が進まないと気が済まず泣き喚く子供でした。小学校高学年の頃毎日提出する自学ノートを文字やイラストで隙間なく埋めるのが習慣だったのですが、先延ばしをして夜遅くなり母親に「もう寝なさい」と言われると泣いて拒み涙を零しながらノートを埋めていました。美術の授業では納得いくまで絵を描き続け、いつも描き終わるのは最後、時には居残りまでしていました。軽音部でバンドをやっていた時は所属させられたバンドのボーカルが下手すぎて耐えられず「ボーカルを私と代わらないなら私は部活を辞める」とわがままを言い迷惑をかけました。体育祭で女子は創作ダンスを踊るのですが、副ダンス長になった際は人が変わったようにリーダー性を発揮して制作と指導に当たりました。自学ノートも、絵画も、バンドも、ダンスも、お陰様で高く評価されました。それはいいです。完璧主義の光の部分です。問題は闇の部分です。

 まず完璧主義だと、完璧な幻影を常に求め続けているので自分の出した成果に満足することができません。認められても「もっと上手くできた」と思うか、よくても「当たり前の結果だから喜ぶことでもない」と思う程度です。そのため、大学生活を始めた段階で既に「私はいい大学に入れなかった」という、低い自己肯定感を持っていました。そこに通学や生活が不能になったことによる失望や自信喪失が加わり、ストレスが蓄積されていきました。

 また、完璧主義は物事に手をつけるハードルを上げます。「完璧に近づくにはこうでなければならない、でも失敗するかもしれない、怖い、故に手を触れられない。」とか、「もし失敗するならむしろ何もしない方がマシ。」とか、本気で心の底で思っています。結果的にやりたいことややらなければいけないことがあっても、手を出すことができなくなります。楽しみなことや頑張りたいと思うことほど完璧を求めますから、結果的に先延ばしをしてしまうわけです。

 

3. イチゼロ思考

 私はいつも極端です。イチかゼロ、白か黒、イェスかノー、はっきりしないと気持ち悪いです。曖昧なことが大嫌いです。遅刻するくらいならもう行かない。スケジュールが少し崩れたらもう何もしたくない、どうしたらいいかわからない。嫌なものは嫌だから絶対にやりたくない。こんなに人生が上手くいかないなら死んだ方がマシ。この考え方は害しかありません。まず何においても「成し遂げる」ことを妨げます。少しでもコケたり予想通りにいかないと放棄したくなるので、達成までたどり着けないのです。それに、自分のミスや欠点を許せないので自分を責めることになります。ここがダメだから私は何もかもダメ、と思うわけです。文章にすると馬鹿げてるけど、本気でそう思い込んでいたし、自分で自分の首を締め続けてきました。

 

4. 集団への適応力の低さ

 一見すると私はコミュニケーションに問題がない、むしろ得意とする人です。だけど実際は表面上の付き合いしかできず、人に心を開くのが苦手で、集団への帰属意識が持てず、結局ドロップアウトしてしまうタイプです。みんながみんな同じことをしているのを見ると気持ち悪くてやりたくなくなるし、気に食わないルールを強制されると拒否してしまうし、飲み会などの社交イベントは死ぬほど疲れるから避けるし、とにかく集団に属することが苦手です。しかも、そんな一匹狼の自分を好きでいられたらいいものの、面倒臭いことに「帰属したい、しなくてはいけない」という気持ち、理想が常にあります。だから、同調できない自分が嫌でした。でも頑張って社交イベントに出ると疲れて丸一日寝込んだりしてしまう始末でした。

 「大学に友達なんていなかったけど卒業できた」と言う人がよくいますが、私には無理でした。サークルで音楽活動がしたいという根強い理想があったし、上手く馴染めない自分が許せませんでした。イギリスの大学にいた時はソサエティやグループワークで上手く立ち回れない自分が惨めでした。基本的に他人への興味が薄くて友達が上手く作れないので、いざ困った時も助けを求められる人がいませんでした。

 これは集団への適応とは異なりますが、極度に異性が苦手だったのに出席番号が隣の男の子に入学して1ヶ月もせず告白をされて同じ授業に出るのがつらくなった、というのも授業に行けなくなった理由の一つです。告白されたなんて些細なことだけど、私にとってはひどいストレスで、とても悩んだし苦しかったことを覚えています。 

 

5. PMS

 私はPMSが重い方で、眠気・だるさ・腹痛・頭痛が高校生の頃からありました。そのせいで欠席する日も多々ありました。休むことにはあまり抵抗がなかった高校と違い、大学は「絶対に休みたくない」という理想があったので、朝起きれない日が続くとものすごいストレスを感じました。しかも、大学入学当初はまだそれがPMSの症状だという自覚が一切なかったのです。朝起きられないのは私がダメだから、意志が弱いからだと思っていました。朝起きられなくて一限に間に合わない、遅刻するくらいなら行きたくない、でもそんな自分が許せない、私はダメだ...それが全ての始まりでした。あの時の焦り、混乱、自己叱責、とにかく悲しくて苦しくてたまらない感覚は、5年経った今でも覚えています。PMSの緩和の努力は今の今まで、それなりに頑張ってきたと思います。食事、睡眠、運動、ヨガ、瞑想、サプリメントハーブティー。今は一度副作用で挫折した低用量ピルを試しています。相変わらず副作用の吐き気がひどくて1ヶ月目は寝込んだりもしましたが、吐き気どめと飲むタイミングのコツを得たのでかなり楽になりました。来月で3ヶ月目になるので、PMSの改善に期待しています。

 

 

 

 これらの私の特性や体質が組み合わさって、ストレスが積もりに積もって、気づいたら混乱地獄に陥って身動きが取れなくなった、というのが最初に抑うつ状態になった理由だと思います。そこから自傷行為が始まったりして、結局適応障害という診断名をもらい、最初の大学に休学届けを出しました。

 次の大学に入学した時は、当時の自分なりに生活能力に自信をつけたり、改善策を用意したりして万全の体制で臨んだはずでした。ですが結局上記の特性が治ることはなく、同じような流れで生活不能に陥っていき、今度は不安が異様に強い状態になってしまいました。

 「なんで大学辞めたの?」とか「なんで大学行けなくなったの?」とか聞かれることは多いですが、これだけ理由が複雑だと答えるのが難しいです。全てを説明するのは無理なので「ストレスが溜まりまくって体調を崩した」と答えたりしています。

 

 大学を辞めず休学にしておけばよかったのに、というのは、人にも言われるし、私も最近少し思うようになりました。だけど、説明したように私は上手くいかなかった環境に居座ることが気持ち悪く、新しい環境に希望を持ってしまったのです。もうこれは昔のまだ自己理解が足りなかった私の過去の選択だし、後悔しても仕方ないので考えないようにしています。

 

 

 中退に至る過程で、自己理解はかなり進みました。お陰様で今は前よりずっとストレスのない生活ができているし、よく頑張ったなと思っています。高校を卒業した以来唯一成し遂げたな、頑張ったな、と思えていることはこの精神疾患の治療と、この自己理解だと思います。周りの人達と同じ道を歩めないことに対してずっとコンプレックスや劣等感を感じていたけど、二度中退して、ニートやフリーターを経て色んな人の人生に触れてきたら、もうなんか、良い意味でそんなものどうでもよくなってきました。他人と比較したって良いことがないし、私は私の人生選択に自信を持っているし、嘆いたって過去は変わらないんだから、とにかく今できることをやるしかない、今を楽しむのが大事。極端な考え方も、プロとのカウンセリングや自己カウンセリングを経てかなり緩くなりました。何より難しかった「まあ、なんとかなるでしょ」という考え方ができるようになりました。

 

 でも、書き出したような特性はこれからも付きまといます。大変だけど、まあやっていくしかないので、力を抜いて自分を生きていこうと思います。

 

 

 同じような特性を持っていて大学生活や社会生活に支障をきたしている人たちはたくさんいると思います。大なり小なり似てる!私も苦労してる!という人が、読者の中にはいると思います。その人たちに伝えたいことは、一緒に生き抜こうね、ということです。死ぬことを考えるのは簡単で、一時的に現実から逃避させてくれます。でも死は、救いの手をなかなか差し伸べてくれません。私も事あるごとに死にたいと思ってきたし、自殺を試みたこともありました。でも途中から、死のことは考えるだけ無駄だと思うようになりました。叶わぬ夢に焦がれていても現実は一向によくなりませんし、全く楽になれません。生きるしかないんです。どうせ生きるしかないなら、楽しい方がいいに決まっています。じゃあ楽しく、ラクに生きられるように努力しよう、そう考えるようになりました。私の場合は生きること自体が苦痛で、人生に大した希望もなく、生きる理由が感じられなかったので、ずっと飼いたかった鳥を飼うことにしました。結論から言って、生きる理由を得ました。彼は私を頼ってくれるし、私は彼を幸せにできて、彼も私を幸せにしてくれます。ウィンウィンです。共依存です。みんな鳥を飼った方がいいよとは言いませんが、自分の生に希望も理由も見当たらない人たちが、何かしらを見つけられたらいいなあと思います。

 「生きていたら楽しいことはあるよ」という言葉は嫌いです。苦しいことより楽しいことの方が多い人の考え方で、馬鹿げています。だけど、「生きるしかないんだから楽しいことを増やした方がラク」なら私は納得できます。だって仕方ないじゃないですか。生きるしかなくて、死を願ってもつらいだけで、耐え難くて、それならもう何かしらの方法で自分をラクにするしか自分を救えないです。

 

 とにかく、この記事を読んだ人が少しでもラクになることを願うのみです。特に人生辛くない人はその輝きをキープして欲しいです。

 

 

 

そういえば、慶應の通信教育課程に合格しました。よかった。今年度から晴れて三度目の大学生です。勉強が楽しみです。それに関しても今後ブログを書いていこうと思います。よろしくお願いします。

 

おわり

二度目の東京は温かくて、私は冷たい

東京に再度移り住んできて一年が経つ。 

 

一度目の東京は、杉並区だった。環八通り沿いの、うるさくて、暗くて、悲しい2DKに住んでいた。うだる夏の日はコンクリートの照り返しが熱く、冬は木の葉が体を打った。車の排気ガスが臭くて、無理やり植えられた街路樹が苦しそうで、とても嫌いだった。

 

二度目の東京は、調布だ。前より狭い通り沿いの、広くて、明るくて、温かな3LDKに住んでいる。春には、道路沿いに若木が植えられた。一緒にここで大きくなろうね、と思いながら眺めた。秋には、満月が窓から覗く。紫色の空に向かって歩いた。とても好きな家だ。

 

今の暮らしを、続けたいと思っている。毎日がぬるい幸せをまとっている。大したものではないけれど美味しいものが食べられて、可愛い鳥とトカゲがリビングにいて、なんとなく不安も薄れていて、なんとなくこれで良い気がしている。毎晩こだわりの純白ベッドで眠り、毎朝温かな光を浴び、自分に甘い。23度といったところだ。

 

だけど、私の芯は冷たい。私は、これじゃ嫌で、これじゃ物足りないと思っている。目の前の幸せが全部嫌になることがある。

 

私は橋を焼きたい。今ある幸せを捨てたい。

 

今まで、目の前の、触れられる幸せを感じようと努力してきた。お陰で感じるようになってきた。紅茶の香りや、鳥の羽の撫で心地、月光の優しさ、コメディを見て笑うこと、人と気持ちが通じ合うこと。なのに、ふとした瞬間、全て捨てたくなる。

 

イギリスに留学してすぐの頃は、きっと今より満たされていた。新しい人生を始められると思った。知っている人が誰もいない国での生活は、とても心地よかった。愛し合っている相手もいなければ、守るべき存在もなくて、ただ私一人だったのに、それだけで正しいと感じた。

 

あの頃が恋しい。

 

あの頃は、私が私であるだけでよかった。愛してるの言葉も、委ねられた命もなかった。生きる理由なんてなかったけど、私だけでよかった。今はどうだろう。生きているのは理由があるから。私だけじゃいけないのか。

 

私は生きたくなんてない。死ぬことが許されない宿命を受け入れて、生に身を縛り付けただけだ。たまにそのことを思い出す。こじつけのような、陳腐でありきたりな幸せを感じては「これでいいんだ」と自分に言い聞かせている。幸せだなあも、愛してるも、全部ただの自己暗示のような気がする。その響きだけで生きていける気がするなんてのは、錯覚だと思う。

 

東京の街は以前より温かく、優しい。私も元気になってきていると思う。いいことだ。だけど違う。嘘ばかりだ。私は理由なんてなくても、私のために生きたい。焼きたい。

ニート歴が1年を超えたので感想を書きます

0. はじめに

去年の1月半ばに(ほぼ)フルタイムのバイトを辞めてニートになり、1年以上が経過しました。なんとなく書きたくなったので感想を素直に書いてみようと思います。いくつかのテーマに分けて書いてみます。よかったら読んでみてください。こんなニートもいるんだなあ、と。

※去年一年は一応予備校に籍を置いていたのでニート判定が難しいですが、途中からほぼ通えなくなったしニートだったということにしておきます。

 

 

1. 孤独感

紛れもなくありました。子供の頃から一人遊びが好きだったし、友人と親密になることが苦手で好きでもなかった私ですが、それでも途中から「これが孤独か」と感じるようになりました。どこにも属さないため定期的会う人もおらず、気軽に遊びに誘える友人もおらず。会って話す人といえば同居している兄、予備校のスタッフ、精神科医臨床心理士、美容師さんくらいでした。寂しい、友達が欲しい、そういった感情は表面上はありませんでした。あったとしても認められませんでした。だけどなぜかバイトがしたくなったり、フォロワーとオフしたくなったりしました。社会との繋がりを、人との繋がりを求めているのを感じました。困った時相談する相手は第三者だけで、嬉しいことがあっても共有できるのは兄と飼ってるインコとツイッターの青い鳥だけ。私は孤独な自分、孤高の存在、みたいな概念に惹かれません。一人でいることや人と違うことがクールだと感じません。私の場合いつもなぜか気づいたら一人になっていただけで、好んでそうだったわけではないので。性格に問題があるんでしょうが、人に迷惑をかけてはいないと思うし、私もそんなに困っていないからいいやと思っていました。ですがニート歴が長くなるにつれ、人と繋がりたい欲が疼いていることに気づき、「これは困った」と思いました。今まで顕在化してこなかったそんな欲が浮き上がってくるまでに、私は孤独な状態になってしまったのだと思いました。友達がいないことには特に困りません。一人で行きづらいところへ行けないことくらいです。だけど、最近は明確に友達が欲しいなと思うようになりました。自分がこんな風になるなんて今まで想像もしたことがなかったので困惑するし、気持ちが悪いです。ですが、人間が何千年も前から群れで生活していたことを思えば、至極当たり前にも感じるし、この気持ちに素直に向き合って、バイトをするなりスクールに通うなりして、群れを探そうと思っています。

 

 

2. 優越感

この感覚は孤独感ととても仲が悪いです。同居を許さず、いつも喧嘩してばかりでした。去年の春は、順調に4年制大学を卒業した同期たちが労働を始めた春でした。ツイッターのタイムラインに流れてきた大学の元同期たちの卒業式の写真は、今でもフラッシュバックします。あまりに苦しかったです。彼らと違い自分は労働を強いられず、自由に生きている。誰に指図されることもなく、面倒な人付き合いも必要なく、毎日好きな時間に起きて、好きなことをして、好きな時間に眠れる。お金にも困っていない。自分は勝ち組だ。労働を強いられる者たちは可哀想だ。そう思うことも多々ありました。いつの時代も、私のように労働をする必要のないニートこそが自然科学や人文科学を発展させてきたのだ、私もそうしよう、と苦しい理論で自分の境遇や未来を肯定しようとしたりもしました。働かなくていいなら誰だって働きたくないに決まってる、私は働く必要がない、ラッキーで、恵まれている人間なんだ、そう思おうとしました。でも正直、無理でした。スーツやオフィスカジュアルに身を包んだ人たちを見て「働かなくちゃいけないなんて不運な人ね」と見下し、優越感に浸ることができたかというと、できませんでした。第一に、働かざるを得ない事情がある他人を見下すこと自体が間違っていると頭でわかっていました。第二に、私がずっとなりたくて仕方なかった、なれなくて辛くて悲しくて仕方なかったのは、そうやってスーツやオフィスカジュアルに身を包んだ、自身で生計を立てることができる健康な人たちだからです。優越感を感じるどころか、街ゆく労働者たちや大学生たちを見るたびに「居場所があっていいなあ」「仲間がいていいなあ」と感じていました。私はニートになりたくてなったんじゃありません。私がなりたかったのは、彼らでした。

 

 

3. 自由

ニートは"自由"なのか。自由とはなんぞやという難しい話は避けたいところですが、私は自由は制約なしに存在し得ない概念だと思っています。仕事をしていないと"休日"が存在しないのと同じように、制約や抑圧がなければ、それがない状態、つまり自由は存在できないのではないか。ニートといっても、私には確かに「やるべきこと」はありました。家事だとか、大学受験の勉強だとか、通信の志願理由書を書くための読書だとかです。だけど家事を除くものは全て、生きるために必ずしも必要なものではありませんでした。そして、重要なのが、それらを誰も強制してきませんでした。学士号を取るために「すべきこと」を設定したわけですが、学位がなくたって労働はできて、飯が食えます。そしてその設定したタスクだって、誰から課せられたわけでもなく、強制力を伴いません。この一年の制約がなく強制力の働かない生活は、本当に"自由"だったのか。私は違うと思います。学生や社会人から見ると彼らの持つ制約が私には課せられていないわけですから、"自由"に見えたかもしれません。しかし、実際の私の生活は、目に見えない抑圧で毎日押しつぶされそうでした。周りはみんな働いている、周りはみんな学位を持っている、周りのみんな仲間がいて楽しそうだ、私は履歴書が汚い、結果初めてバイトの面接に連続で落ちる、私の人材市場価値は最低だ、私は人と違う、違うのは悪いことじゃない、だけど侮蔑や忌避の対象になるに決まってる、好きでこうじゃないのに、どうして。毎日がそんな気持ちとの戦いでした。これが自由なのか?生活は確かに自由だったかもしれません。だけど精神的には不自由で、不安定でした。私は幸せになってはいけないと思っていたので自分の幸福感を否定しがちでした。私は慎ましく生きないといけないダメな人間だからと節制を試みました。

私は子供の頃から制約を受けることが嫌いでした。女の子らしい服を着ることも、赤いランドセルを使うことも、身なりに関する校則を守ることも、歩幅を合わせることも、友達に合わせて興味のない映画を見ることも、何もかも大嫌いでした。その頃の私が求めていた自由は今手に入れました。誰も私の身なりにも歩幅にも口を出しません。青髪をオールバックにして、ダメージジーンズを履いて毎日暮らしています。だけどその自由の代わりに握らされたのが目も当てられない履歴書だったなんて、高校生の頃の私に教えたら、間違いなく高校をサボるのをやめたと思います。

 

 

4. 未来

ニートにも色々います。固定資産がある真の勝ち組ニートもいれば、一時期に働いて貯めた金を切り崩しながら生きるニートもいるし、私のように限りある親の資本で生きるニートもいます。最初のタイプはレアなケースなので置いておいて、それ以外のタイプのニートはみな大なり小なり未来に対して不安を抱いていると思います。私の場合は、未来に関しては希望を持っていましたし、今も持っています。まだ23なので、学位を取って、そこから働き出すことが可能だと信じているからです。それに、自分が労働しようと思えばきちんとできる能力を持っていることは経験から知っているからです。いくら現実味がないものでも夢を持つことは恥ではないと思うので書くと、夢は海外の大学院で研究をすることです。4年前に最初の大学を適応障害で中退して以来秘めて持ち続けてきた夢です。諦めるつもりは当分ないし、もし快調に進学するのは無理でも、大学院進学なら働き出した後でも可能かもしれません。財力に関しては、私はお金持ちになれないのだという前提で生きています。なので、財力に関する上昇志向や期待はなく、それに伴いそこまで恐怖もありません。もし限界になっても、死ぬ、兄姉に頼る、バイトで生きる、生活保護を受ける、など選択肢は色々あるので、あまり心配はありません。総て、私は未来が楽しみです。大きな期待もしておらず、大きな不安もなく、安定したマインドセットで未来に向き合えていると思います。この状態を損なわず、これからも夢や大小の目標とともに生きていこうと思います。

 

 

5. 自尊心

ニートになって、自尊心はかなり傷つき、もう原形をとどめていません。プライドなんて、もうとっくに粉々です。18歳で上京した頃は意気揚々としていました。いじめとDQNの蔓延る田舎の小中学校を出て都会の高校に進学、高校の定期考査ではいつも学年の下から数えた方が早いくらいの順位を叩き出していたのに、模試には少し強かったため大して勉強もせず、理想とは程遠かったもののそれなりの大学に合格し、そりゃあもうプライドの高い方だったと思います。しかしそこからの転落劇は笑えます。まず大学に行けなくなりボロボロになりました。不本意にもフリーターやニートを繰り返し、それでも洗わずに放置したグラスにこびりついた水垢のようなプライドを持って海外の大学に進学し、また心身を壊して中退、グラスは割れました。心ここに在らずのままフリーターをした後、グラスの破片を拾い集めて再度大学受験に臨むものの、相変わらずの不安障害に加え婦人疾患が発覚した完全に通学への自信を喪失して挑戦を断念。グラスの破片は風に乗って消えてしまいました。今はもうほぼ何もありません。破片とも呼べないガラスの粉が目の中に入っていて、たまに痛む程度です。もう誰にどう思われてもどうでもいい。私がしたいように生きる。少しずつそう思えるようになってきているのはそのお陰でもあります。自尊心というのは他人との比較の上にしか成り立ちません。私は比較をやめた、というか諦めたのだと思います。ここまで辿り着くまで苦しい道のりでしたが、結果的にはこれでよかったんだと思います。今まで持っていた自尊心は消えましたが、代わりに新しい価値観を手に入れたと思っているからです。それは「私は私でいい」というシンプルなものです。シンプルこそ難しいもので、その考え方を身につけるのは本当に大変でした。だけど、結構いい感じに、手に入ったと思っています。これでよかったんだと思います。

 

 

6. 最後に

ここまで書いておいてアレですが、ニートと自称するのはあまり好きではありません。肩書きは必ずしも必要なものではないし、それにニートってなんだかネガティブな印象を与える言葉だからです。ニートの状態にある人をポジティブに評価する際に使われることより、逆の評価をする際に使われることの方が多いのではないかと思います。だからって「夢追い人」とか気持ち悪い呼び方をされたいわけではないですが、ただ、ニートの語意に当てはまる状態に陥っていることをあまりその語を使って馬鹿にしたり蔑んだりしないでほしいなと思います。固定資産で食っていようが、何歳になっても親の脛をかじっていようが、まともな職に就かずフラフラしていようが、いいですよね、個人の選択に他人が口を出すのは余計なお世話です。私のブログを読んでいるような人たちはある程度頭のいい人たちで、良識があるのかなと予想しますが、世の中には本当に価値観が凝り固まっていて視野の狭い、押し付けがましい、図々しい人たちがいます。私が嫌いで怖いのはそんな人たちです。他人には他人の事情があるのに考慮せず、自分の考え方を押し付けてくる人たちです。権力には媚びへつらい、マジョリティの自覚もなく、共感力に欠ける。そんな人たちの境遇や価値観に対しても私は口を出すつもりはありませんが、そうやって耐え続けて、傷つき続けるのは私です。なんとも悲しいことです。学校や会社に通っていない、通えない、それだけで差別されがちなニートのみなさんが、どうかなるべく優しい人たちに出会って、幸せになってほしい。そう願ってやみません。そして、私は無力だから嫌な奴を懲らしめることはできないけど、嫌な奴らが全員社会的に死んだ後肉体的にも(略) 今年の春からは、上手くいけば慶應の通信課程で学び始める予定です。肩書きにこだわるならば、一応学生になるわけです。晴れてニートも卒業です。バイトもほどほどにして勉強に集中するつもりです。ニートでいることが恥ずかしいわけではないけど、散々書いてきた通り、孤独感や不安定感にはもう懲り懲りなので、それから少しでも脱することができるなら万歳です。これで不合格となるとかなり困るので、志望理由書の執筆を頑張ります。書評を書かなくてはいけないのですが、じっくり読んでいるし計画遂行力が低いのでなかなか進みません(汗)しかし頑張ります。この記事を読んでくれたニートの皆さんも、非ニートの皆さんも、それぞれ置かれた環境の中で、少しでも楽しく生きられるように共に進んでいきましょうね。ご拝読をありがとうございました。

 

おわり

「心」の病じゃない、体の病だ

精神疾患」「心の健康」「心の病」「心の風邪」そんな言葉は聞き飽きた。

 

私は今まで自分の「心」とやらと嫌になる程向き合ってきた。なぜなら自分に現れた症状が「メンタルクリニック」で対処してもらう病気のものだったからだ。精神、心の病だと思い込んできた。たくさん考えた。なぜ自分は憂鬱なのか、不安なのか、怖いのか、そして体が動かないのか、どうしてこんなに痛くて、苦しくて、眠くて、頭が働かなくて、涙が止まらないのか。謎は深まるばかりだった。

 

でもそうやってもがいている内に、気づいたことがある。それは、「心」なんてなくて、私には「体」しかないということ。どうして長いこと「心」なんて曖昧なものがあるとぼんやり思っていたんだろうか、バカらしい。もう私は、そんなものないと思う。便宜上その概念を使うことはあるだろうが、存在を認めることはもうしないと思う。

 

そもそも精神疾患というのは「心」の病じゃない。体の病だ。憂鬱な気持ちが強いだけではうつ病と診断されない。「社会参加に困難をきたしているか」といった診断基準が設けられているはずだ。学校に行けない、会社に行けない、人間関係に大きな支障をきたしている、日常生活に支障をきたしている、などの条件があるのではないだろうか?(細かい診断基準のことはわかりません)そしてそこまでの状態に至るには、多くの場合体調的な問題が絡んでくると思う。

 

有名どころの精神疾患の治療法は、大体が投薬と心理療法の二つだと思う。投薬は、体に直接働きかける方法。特定の神経の伝達を活発化させたり逆に弱めたりして、睡眠や気分のコントロールをする。東洋医学を用いて漢方を処方する場合もある。心理療法は薬を使わず認知や行動や情緒に変化を与える方法。対話や集団での活動など多様な療法がある。

 

治療を始めた頃私はこれを「ハード面とソフト面から攻めるのだ」と理解していた。体は薬で、心はカウンセリングなどで、という具合でだ。それが正解なのだと思い込んでいた。

でもそれが違った。私という存在は、私の体ありきなのだ。体がなければ、私は存在しない。ソフトなんて、ないのだ。我思う、故に我あり、ではない。我思う、故は体なり、である(適当)

 

そこで考え方を変えてみた。私は、「心」のことはひとまず置いといて、「体」を思いやればいいのだ。

 

筋肉こそがソリューション!とか、オーガニックしか食べるべきじゃない!とか、そんなことが言いたいわけじゃない。要はこういうことだ。私は、体だ。そしてその体は、胃に入れるもの、肺に入れるもの、五感で感じるもの、などの影響を受けて日々変化している。悲しい。憂鬱だ。不安だ。頭が痛い。胃の調子が悪い。眠れない。人に会いたくない。それはなぜか?体が影響を受けた結果である。じゃあ何を変えたらいい?影響を与えるものを変えればいいのだ。食べるものを変える、目に入るものを変える、聞こえるものを変える、触れるものを変える。それらは行く場所を変える、会う人を変える、身辺環境を変えるなどで達成される。そしてもう一つ、私の体に影響を与えているものがある。それが運動だ。運動は認知や感受の結果を受けて無意識下で行われるものではないから、自らの意識で行うしかないと思う。しかし、運動というのは本来私たち人類は「意識して」行っていたものではないのではないだろうか。せざるを得なかったことなのだと思う。でもその強制力を失った今、必要となれば意識的に行うしかないのだと思う。

 

筋トレが万能のソリューションではないと思う理由はこれだ。体は(多分)筋肉だけでできているわけではないから、筋トレで内臓の環境は変えられない。五感で受容するストレス源は取り除けない。結果的に、体、つまり私を変えることにはならない。

 

これは一つの考え方であり、絶対に正しいとは思わない。それに、医学や心理学など学問領域で使われる「精神」だとか「心理」だとかいう概念が、一体なんなのか正直よくわからない。何も根拠もなく書いていることなので、あまり難しく受け止めないでほしいし、怖いので強い批判は受け付けない。

 

 

私がこの考え方についてもう一つ思うのが、この「心の病は体の病だ」という認識がもっと広がれば、きっと精神疾患患者たちの心労は幾分減るだろうなということだ。うつ病は「甘え」だとか、精神疾患で休んでいるのに遊びに行くのはおかしいだとか、そういったことを言う人が未だにいるらしいが、そういった人にはやはり精神疾患が「心」というソフトだけの病気だという間違った認識があるのではないだろうか。精神疾患は体の病だ。だから、治すには体に働きかけるしかないのだ。体を、体を取り巻く環境を、変えるしかないのだ。それが今回の記事の主張だ。

 

ツイートに書ききれなかったので記事にしたまでですが、読んでくれた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

ここからは私個人のブログらしい内容になる。

 

今日からジムに通い始めた。というのも、前述の内容の前者「影響を与えるもの」のコントロールが落ち着いて、かなり快適になった。居住環境は至極快適、学校に通うストレスもなく、人間関係の複雑なバイトもしておらず、とにかくストレスが少なく快適だ。定期的に会っている人間といえば兄と恋人くらいで、本当に気持ちが軽い。ここまで書くとどれだけ社会不適合なんだという感じだし、みんながみんなこの状況を作り出せるわけではないから、こいつはなんて甘ったれたクソ野郎だ、という声もわかる。聞こえる。だけど、この状況が今現在の私の体には合っていて、心地がいいのだ。精神疾患の治療のためと考えれば、適切な状態だ。お陰様で憂鬱な気分や漠然とした苦しい不安も和らいできて、日々穏やかに過ごせている。頭痛や腹痛も減った。ここまで辿り着けて、本当に良かったと思っている。

 

こうやって環境は整えた。よし、じゃあ次にすべきは運動だと思ったのだ。実は今、人生で一番太っている。それはもう体が重い。見た目が醜いだけでなくそのせいで自信が削がれているし、疲れやすくてヒールを履くと足が酷く痛いし、良いことが一切ない。これで痩せれば、自信もつき、体調もきっとさらによくなり、快適に違いない。だから痩せる。今日(日本では)初めてジムに行ってみたが、とにかく楽しかった。イヤホンもつけず運動に集中してみたら、心が洗われるようだった。瞑想するのと同じくらい気持ちがいい。代謝が悪いので、汗をダラダラかいて運動終わりに熱いシャワーで「ッカ〜!!」みたいな経験はできなかったが、私なりに楽しめた。週3を目標に通っていこうと思う。

 

最近は先述の通り、調子がいい。素晴らしいことだ。そしてそのことから、いかに自分が社会組織を苦手とするかを痛感している。でもだからと言って悲観していても仕方ないので、自分に合った生き方を考えていかなくてはなと考えている。とりあえず今は慶應の通信課程に受かることが第一で、その次にTOEICやその他の勉強かなという感じ。だけど、ゆくゆくは社会組織に慣れるためにバイトをしてみたり、自力で少しでも稼ぐためにスキル(翻訳やプログラミングを考えている)をつけたり、能動的にやっていこうと考えてはいる。集団に適応してコマとして働くのが一番楽な稼ぎ方、楽な生き方と思う。だけどもしそれが合いそうにないなら、結果的に病に陥るようなら、フリーランスで食っていく覚悟を決めなくてはいけない時が来るかもしれない。避けたいとは思うが。備えは早いに限る。有難いことに備える時間を与えられていて、私もその恩恵を享受することに決めたのだ。決めたことは突き通すしかない。

私は私だけの方法で、生きていくしかない。

 

 

 

おわり

生き心地

今実家にいます。台所では、母と姉(次女)がおせち作りをしています。父は、庭で石窯をいじっています。私は、勉強道具を広げてブログを書いています。猫は、窓際で丸くなって寝ています。

 

「うわあ、生きてる心地がする!」福岡に舞い戻ってきてしばらくして、ふと思ったことでした。ここ2年ほど、少し遠出しすると必ず離人感覚が現れていたのですが、今回の帰省では一度もそれに襲われていません。見える世界が偽物にも見えなくて、この世に自分が存在していないような不安もありません。見慣れた景色のはずなのによそよそしくて、自分の腕なのに自分のものじゃないみたいで、家族がただの動く肉塊にしか感じなくて、怖くて、悲しくて、寂しくて。そんな感覚はなくて、ただ、私はここにいるとわかります。

 

 

2018年は、まとまりのない一年でした。2月に上京してきて、11月まで受験生として予備校にしがみついていました。結局大学受験は諦めてしまったけど、後悔はありません。今の私にとってベストな道を選べたとは思っています。低刺激な日々ではあったけど東京生活に慣れることはできたし、情緒も随分落ち着いたし、有意義だった気がします。夏には久し振りに恋人ができました。優しくて聡明で愛らしい人です。お付き合いを始めて以来腕も切ってないし、随分心を柔らかくしてくれました。生まれた場所も生きてきた環境も違う二人の個人が、想い合って、支え合って、会うたびに笑顔になって、こんな幸せな恋愛が私にもできるんだと驚いているのが本音です。出会えて本当に良かったし、これからも二人で一緒に喜びも悲しみも感じていきたいなと思います。

 

来年は春から通信教育で学位取得に向けて勉強をする予定です。書類審査に通らなければ学生生活が始まりもしないので、まずはそこを乗り越えるところからです。そして入学を果たしたら、最初のレポート提出と、7月の試験が次の難関です。一つ一つ乗り越えていきたいです。受けない、もしくは受けても落ちるとは思うけど、一応通学課程への編入試験受験を視野に入れているので、気を抜かず単位を落とさないよう頑張ります。今は入学できるかどうかがかなり不安だけど、入学してしまえば待ちに待った勉強ができます!人文科学は幅広く学べるだけでなく、自然科学の地学や生物もできるのが楽しみすぎます。アー楽しみすぎる!

 

1月からはレギュラー勤務のアルバイトも始める予定です。バイトの面接は落ちまくっていたんですが、この前やっとレストランのホールスタッフとして採ってもらえました!きちんとしたお店なので憧れの青髪は遠のいてしまったけど、素敵で居る人も良さげなレストランなので、長く勤められたらなと思っています。フリーター生活はかれこれ2年以上やっていますが、バイトがないと結構孤独だし、通信課程では友達も大してできないと思われるので、あのお店が東京の居場所になったらな、なんて考えています。

 

来年したいことは他にもたくさんあります!まず、TOEICで900点以上取っておきたいです。持っていて損はないと思うし、ビジネス英語を学んでみたい気持ちがあります。それに英語を勉強するモチベーションになるので。IELTSが本当は好きだけど、まずはTOEICかなと考えています。あと、まずは独学で、翻訳の勉強を始めたいです。4年(または5年)の在学中に翻訳会社のトライアルを受けて、フリーランスでちまちまとお仕事を始められたらなあとぼんやり考えています。翻訳は奥深くて興味があるし、少しでも自分のスキルで稼ぎたい気持ちがあります。あとあと、もう3年ほど行けてないバードウォッチングに行きたいし、海外旅行に一度は行きたい!世界史を学び直してギリシアやイタリアやトルコへ行ってみたいです。史学といえば結局日本史をきちんと勉強したことがないので、日本史の授業を取って知識を詰めたいです。他にもPS4がなんとしても欲しいだとか、ジムに通いたいだとか、そして痩せて美人になって恋人に死ぬほど愛されたいだとか(?)、色々ありますが、まあとにかく健康第一、学問第二でやっていきたいです。来年大切にする言葉は「一に健康二に学問、三四がなくて、五に学問」にします!今年は自分の体力のなさと体が資本だという事実を痛感したし、来年はバイトや運動で体を強くしたいです。そして今度こそ、きちんと高等教育を受けたいです。今度こそ、中退しないぞ...(不安)

 

 

 

多くの人と違う道を行くのは相も変わらず、ここまできてもなお、不安です。なるべく同じことがしていたかったです。普通に大学を出て就職したかった。普通に大学の友達が欲しかった。でもできなかった。私はみんなと同じことができなかった。そうやって悲しくなることもいまだにあります。最初の大学を中退してもう3年以上経つというのに。でも今年は、そうやって涙を流すことが減った気がします。私は何も間違ったことはしてこなかったんだ、自分を責めなくてもいいんだ、人と比べるなんてやめよう。私にとっての幸せは私が決めるものだし、私は私を幸せにしていいんだ。手に入らないものは無数にあるけど、手で触れられる小さな幸せを見つけて、ぼんやり眺めていれば、案外私の人生っていいものなのかもしれない。そんな風に、表面的にでなく、心の底から思えるようになりました。大きな成長です。少しずつだけど、毎年いい方へ進んでいると思います。

 

長い。適応障害になって4年半、まだ引きずっているなんて。気づいたらこんなに正規ルートから逸れてしまったなんて。4年前「1年もすれば治って元に戻っているだろう」と踏んでいた私にこの現状を伝えたら、踏みとどまった足を踏み出してしまっていたかもしれません。この病気の治療生活は、薬を飲んで寝ていれば治るという単純なものではなくて、自己理解、心理や行動についての学習、精神状態の改善、生活改善のための取り組みをトライアンドエラーで繰り返し、と大変でした。心も体も面倒くさい自分と付き合うのが嫌になることもしばしばあります。

 

でもやっと最近は、自分の生を受け入れることができてきたようで、死にたいと思うことが減りました。死への執着がなくなったというか、諦めた、というニュアンスが近い気もします。どうせ死ねないし、なんとか生きていくしかない。生きるしかない、とにかくやるしかない。自殺できるほどにまで自分を追い詰めるためには、私は恵まれ過ぎていると気づきました。死に至るほどにまで体を酷使したり希望を奪い取ったりするには環境が必要です。私には必要としてくれる人や動物がいて、私も彼らを大切に思っています。そして生きるのに不自由ない体やお金にも恵まれました。こんな状態で死を願ったところで、叶うわけなかった。だからつらかった。贅沢な悩みとはわかっていたけれど、死にたかったし逃げたかったし、環境が私を生や幸福を押し付けてくるようで、酷く憎かった。環境に感謝しろと人に言われるたびに苦しくて悔しくて、殺したかった。だけど低刺激な日々をとぼとぼと歩いてきた2018年、気づいたら暗いトンネルは終わっていたようで、なんだか今はそんな激しい感情もありません。思う通りにいかなくても生きるしかない宿命を受け入れられているし、「まあ、なんとかやっていくか」くらいの緩い構え方ができるようになってきました。死の誘惑は強いけど、まあ今の生き心地はそんなに悪くないし、それはまた今度でいいや、と思います。

 

過去も過去だし、未来は希望でいっぱい!とはいきませんが、とりあえず来年や明日、やりたいこともたくさんあるし、ぼんやり楽しく生きていこうかなと思います。

 

 

 

2018年お疲れさまでした。ブログを読んでくださった方々、ありがとうございました。来年も少しずつ更新していく予定なので、よろしければ見に来て、私の人生の進捗を見ていってください。笑

 

来年もよろしくお願いいたします。

 

おわり

大学受験を辞める

まさかこうなるとは思ってませんでした。

本気に最後までやり遂げるつもりでした。

私は、何かを達成する喜びを感じるのが下手です。いつも完璧の虚像しか見えていなくて、いつも無力感があって、自信がありません。だから今度こそ、結果がどうであれ、最後までやり遂げて達成感を味わおう、そう思っていました。それゆえ、受験を辞める決断を下すのはとてもつらいものでした。悔しくて悲しくて、情けなくて悲しくて、たくさん悩んでたくさん泣きました。

 

そもそもどうして辞めることにしたのか。事の発端は、10月後半の生理前、胸に痛みを感じ触診していたら、しこりを見つけた事件でした。とても怖くなりました。痛いし、不安だし、何かしたいけど何もできなくて、空白の日が1週間以上続きました。勉強する気満々でいて割と波にも乗っていた、そんな時に起きた事件でした。結局乳腺外科にかかって良性腫瘍だろうと診断されましたが、黄体期が終わっても日々違和感があるし、夜は痛いし、本当に嫌です。そろそろまた黄体期で胸が張るし、痛みが強くなってきました。大概にしてほしいです。この事件を受けて、私は自分の心と体の脆弱性を再確認しました。誰も好きで重いPMSを経験しているわけでもなければ、胸を痛めているわけではありません。好きで不安から寝込むわけでも、好きで精神科に通っているわけでもないです。だけどそうなってしまっている事実を、受け入れるしかないです。今年大学受験の勉強を始めたのが2月ごろ。6月まで頑張れればあとは大丈夫、そう信じて予備校に何とかすがりついた夏前。夏期期間で授業も減り自分のペースで勉強ができて好調だった夏。2学期が始まり、結局またいけなくなって、気がついたら個別指導しか行かなくなって、そして、これです。大学生活のための訓練期間、試用期間であった今年でしたが、状況を見てきた限り、結果として、来年からの通学は難しい。そう判断しました。妥当な判断だと思います。この調子でほぼ自学で勉強してどこかに滑り込んだところで、きっとまた通学できなくなるのがオチです。そう確信できたのが、今年の収穫だったということにします。

 

来年度からは、(受かれば)慶應の通信課程で勉強しようと思っています。自分の状況や意志、将来したいことや学生の間したいことなど、色んなことを考慮しながら何度も通信課程と通学課程を細かく比較しました。そうやって導き出した結果なので、納得しています。慶應の通信は卒業が難しいと評判ですが、覚悟はあるし、4年で卒業を目指します。既に4年で卒業するために役立ちそうなブログはブックマークしてあるし、先取り学習のためにフランス語の教材は買ったし(まだあんまりやってないけど)、準備は万端です。提供される科目のシラバスは一通り見ましたが特に不満もないですし、早くレポートを書かせて!という気持ちです。学生証がもらえるのであらゆる場面で学割の恩恵を受けられるし、キャンパスの図書館も使えるし、文句がないです。でも騒がしい授業には出なくていいしグループワークもない。朝一の必修授業に出られなくて泣くこともありません。卒業できたとしても所詮通信の学位かもしれないけど、それでも私は欲しいです。欲しいし、得るまでの過程を楽しみたいです。とにかく受からなくてはいけないので、そろそろ気合を入れて第一次選考用の小論文を書こうかなと思っています。ちなみに慶應の通信課程だと、一定の単位を取ったところで二年次編入試験が受けられます(内部生以外は受けられません)。もし三田キャンパスにまともに通えそうだったら、編入を目指してもいいのかなと思ったりしています。それを目的に通信課程に入学するつもりはないし、あくまでそこで卒業するつもりで入学しますが、通学課程の強みとして私がつきたい先生のゼミやそこでのコネクションというのがあるので、可能性として残しておくために、編入試験に必要な英語と第二外国語の勉強は、特に力を入れようと思っています。まあ通学は無理だとは思いますが。一応、4月からはアルバイトのない日は三田キャンパスに通って勉強する習慣をつけたいなと思ってはいます。

 

決断を下してから約2週間、しばらくは引きずっていた大学受験への名残惜しさも薄れてきて、自分の能力や健康状態に合った道を歩もうと思えるようになりました。でもふとした時、ひどく空しくなります。私は何も達成してこれなかったな、こんな人生嫌だったな、もっと滑らかに生きたかったな、これからもこの経歴と生きていかなきゃいけないんだな、つらいな、と。最近アルバイトの面接をいくつか受けました。面接の帰りは、ほぼ毎回、電車で泣いてしまいます。履歴書に書かれた中途退学の文字を見るたびに胸が苦しくなります。もう23歳だという事実。同い年は学位を取って、大学院に入ったり働き出したりしているのに、私は何をしてるんだろう、情けない、恥ずかしい、こんなはずじゃなかったのに。そう思うと堪らなくて、泣かずにはいられなくなります。自分の選択に後悔は一つもありません。いつだって真面目に真面目に考えて決めてきました。それだけが救いだけど、それでも、やっぱり、こんな人生は嫌でした。自分から荒波に突っ込んでいくような選択もしてきたし、つらい思いをしているのは自業自得の部分もあります。例えば、青学を辞めた時点で大学は諦めて働き出していれば、今頃居場所を見つけていたかもしれません。少しは人生がマシだったかもしれません。だけど、その道を選ばなかった。大学の勉強がしてみたかった。やりたいことがないから働くしかない、じゃなくて、やりたいことがあるからつらそうな道でもチャレンジしてみよう、そうやっていつも主体的に生きてきました。そのことに対して恥じらいはないし、むしろ私の強さだと思っています。そしてそんな私を支援してくれる人たちに心から感謝しています。ああ、自ら大変な道を選んで、親の脛をかじって、失敗して、悔しい思いをして、傷ついて、こんな人生嫌だったと嘆く私は、何がしたいんだろうか。とにかく悔しい、そもそも病気にさえならなければこんな思いしなくて済んだのに。私はただ大学に通う普通のことができない。私には普通のことができない。できない、できない、できない。そうやって時々、混乱したりしています。

 

最近は、毎日基本的にぼんやり過ごしています。連日面接を受けて疲れてゴロゴロしたり、積ん読を消費したり、勉強してみたり、映画を見たり、掃除をしたり、お昼寝したり。3月まではバイトをしたり好きな勉強をしたりして過ごそうと思います。自由で、暇な日々です。そろそろ生活に柱を立てたいところです。毎日ちゃんとTO DO LISTを使って勉強をしようと思います。バイトがどこか決まったら、そっちも頑張ります。

 

近況はこんな感じです。まあつらい時もあるけど、暇なせいもあると思うし、なるべく予定を入れたいですね。人生ボロボロだしつらいけど、やっていくしかないです。目の前のことを楽しむぞ。早く大学生になりたい。

 

おわり。

保険

婦人科関係で体調を崩してダウンして、何日か経ちました。自分の身体的な弱さにも、それに対する自分の精神的な弱さにも、ほとほと呆れてしまいます。気力で痛みや怠さや不安に打ち勝てたらいいけど、それができれば医者は要らないという話なので、あまり自分を責めるつもりはありません。何度目かわからないけど、また自信を喪失し始めています。もう11月に入るというのにまだ調子が安定しないからです。

 

 

私が今年再受験の勉強をするために上京してきたのには、いくつか理由がありました。

 

1. 東京生活に慣れるため

私は過去に東京の大学で適応障害になっていて、逃げるように海外へ飛びました。つまり東京生活はある意味リスキーです。そもそも私はそれに対する好意とは裏腹に、都会が苦手だからです。そしてさらに、大学に二度も行けなくなって中退しています。もし福岡で勉強して東京の大学に合格したら、2019年の4月から私は、不安な東京生活と、不安な大学生活を、同時に始めなくてはならないわけです。そのあまりにリスクの高い事態を避けるために、まず一年東京で再受験生活をして慣れさせてから、大学生活を追加する形にしようと思ったのでした。

2. 予備校に通って生活リズムを作るため

こちらは大学生活を健康に送る練習のためです。朝起きて決まった場所へ行く、当然のようにできていたことができなくなってしまったので、練習をしようと思いました。

3. 東京が好きだから

地元福岡にも大学だって予備校だってあります。だけど結局福岡の大学に惹かれなかったのは、もちろんやりたい分野の先生がいないこともありましたが、東京にいたいからでした。東京は疲れます。人が多くて情報が多くて、緑が少なくて。それでも好きなのは、わかりません、いまだに心が田舎者なんだろうと思います。なんでもあるから、好奇心と行動力がある限り、天国のような街だとも思います。それに夜景がとても好きで、手放すのは惜しいです。

 

要は、大学生活を送る訓練のためでした。

そんな理由で二度目の上京をしてきて8ヶ月、結果がこれです(一週間近くまともに勉強できてない)。もちろん波があって、調子がいい時もありました。でも安定しないし、一度心と体がきつくなると何もできなくなります。学力も少しは上がったと思うけど、結局私立文系にまでレベルを落としてしまったし、それでもなお勉強不足に陥っているような状況です。とてもつらいけど、この現状を受け止めて対処していくしかないです。

 

 

受験を止める意向を匂わせてしまいましたが、変わらず来年の冬に受験はする予定です。一度決めたことを途中で放棄したくないし、結果がどうであれ、やり遂げることで自信にしたいからです。それに、応援してくれる人たちがいるので、最後まで諦めたくありません。でも、志望校全てに落ちたら、今年一年の訓練生活が失敗であった合図だと見做して、とりあえず現時点での通学課程への入学は諦めようと思います。どこかの通信課程でマイペースにかつ真面目に勉強しようと思います。慶應の通信課程は、今志望している文学部の教員が在籍しているし、シラバスも見ましたが十分楽しそうです。内容が高度で卒業も難しいそして何より孤独な戦いになるので相当な覚悟を要すると思うけど、スクーリングが必須だし、自分で勉強するのは好きなので、モチベーションは保てるんじゃないかなと感じます。慶應の通信課程は卒業率が低いらしいけど、それは多分早稲田eスクールに比べて学費が安くてかつスクーリングが必須だからだと予測していて、対して早稲田のeスクールの卒業率が高いのは通学課程並みに学費が高い上にスクーリングなしでも卒業が可能、かつサポート体制がしっかりしているからだと予測しています。もし通信課程に進むことにしたら、もう少し慎重に考えてみます。

 

通信課程を選ぶことに対して、後悔などはしないと思います。自分の決めたことに対しては自信を持って生きてきたし、これからもそうだと思います。学位としてはもちろん弱いかもしれないけど、自分の心身と真剣に向き合った(訓練期間の)結果の選択なのだから適切だと思うし、何も得られないよりはマシ、というか、通信課程であれ真面目に学べば通学課程と同等の学びを得られると信じているので、問題ないです。得られる経験に関しても、後者とは異色かもしれないけど何かしら得られると思うので、特に不安や不満はありません。それに、通信課程の途中で通学課程に切り替えるチャンスもあります。期待はできないし、通学課程への移行を前提に通信課程へ進むつもりはありませんが。学費が通学課程より俄然安いのも気持ちが軽くていいなと思います。慶應に至ってはバイトの賃金で賄えそうな額です。真面目にテキストと参考図書を使って勉強をしつつバイトをして、時間割に縛られないから早稲田のエクステンションセンターで授業を取ったりできたら楽しそうだなとか思うし、何か資格の勉強をしてみてもいいなとかも思います。と、書いていたら通学課程より向いてる気がしてきましたが・・・(汗)

 

 

 

 

今日は朝から落ち込んでダラダラ過ごしていて、もうフリーターになろうかなあだとか、働くとしたらどんな職があるかなあだとか、取るとしたらどんな資格にしようかなあだとか、海外逃亡しようかなあだとか、しょうもないことを考えていました。滅入っていると、現実逃避でしか自分を救えません。無意味だとわかっていても。

人生がこんなことになるとは思っていませんでした。もっと普通に大学を卒業して就職するものだと思っていました。でもこうなってしまったものはしょうがないし、柔軟に方針を変えながら、芯は強く持ちつつ、生きていくしかないですね。とりあえず、保険はかけました。受験がダメでも、納得のいく道がその先にあると思えば、肩こりも心なしかマシのような気がします。

 

こんな感じです。とりあえず勉強のペースが戻せたらいいんですが、まだウジウジしています。なぜ何にも手がつかなくなるのか、明確なメカニズムと対処法がわかればいいんですが、なかなか難しいです。もうその辺は病気だからと諦めて付き合うしかないかな・・・。生きているだけで満点ということで、生きます・・・。生きててえらい・・・。