The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている人間の書き溜め

自分語り グローバル編

昔から、遠い世界への憧れが強かった方だと思う。

小学生の頃はTBSのTHE世界遺産が一番好きなテレビ番組だった。夏休みの自由研究は、いつも世界遺産についてまとめていた。悲しくて眠れない夜には、ドキュメンタリー番組や図鑑で見た世界中の生き物の生活を思い浮かべて心を鎮めた。音楽の教科書に載っている少し暗い雰囲気の世界の民謡が好きで、気に入ったものはピアノで自分なりにアレンジして、歌い弾いては母に聞かせた。同じメロディーを、顔も知らない異文化の人たちも歌っているのか思うと、胸が高鳴った。本はファンタジーと伝記が好きだった。いつも何か遠いものを求めていた気がする。インターネットの便利さに可能性を感じて、HTMLを弄ったブログにインターネットへの思いを書き綴ったりもした。黒歴史ではあるけれど、私はあの時のインターネットへの思いが、後に国際開発学を学ぶことになった契機の一つだと思っている。私の夢見た遠い世界の人や物が、インターネットによってこんなに近くに感じられる。何かとてつもない力を感じていた。

高校生になってからは、インターネットも発達して物流網も発達したこの時代だからこそできることがある、この時代に生まれたからこそできることをしたい、そんな風に思うようになった。高校の成績は最悪だったので、成績の評価される選考のある海外研修には応募できなかったが、ある時募集のかけられたタイ・バンコクへの研修では成績が問われないという話を聞き、キタ!と思い応募して、面接を通過し、バンコク研修(ほぼ旅行)が決まった。初海外というだけあって高揚したし、バンコク国連機関を訪れたりもして、いわゆるグローバル化への意識は高まった。そしてまあ単純な私の夢は、国連で働くことになった。

高校時代は、その真面目な夢と、音楽への思いが葛藤していた時期だった。だから大学入試の際は、流行りの国際ナンチャラ系の学部と、音楽に関わる勉強ができそうな学部を混ぜた。受かったところに行けばいいや、運命に任せよう、くらいの軽い気持ちだった。結局後者の音楽に関わる勉強ができそうな学部に合格して、入学して、精神を病んで、辞めて、そうだ!やっぱり国際ナンチャラ系にいこう!と思って、国際開発学部に入って、精神を病んで、辞めて、今ニートをしている。

私は今、高校生の頃の海外への強い憧れや、純粋な正義感が恋しい。取り戻したい、とは違う気持ちなので、懐かしい、が正しいかもしれない。とにかく随分濁ってしまった。海外だって、人がいて違う文化の中で生活している、それだけのようにも感じるし、開発学部の人たちが使うjusticeが何かもわからない。国連機関の活動に強い関心があるかというとよくわからない。広い視野で物事を見ると、手元にあるものを見失ったり、逆にそちらばかり気になってしまったりする。結果的に、国際ナンチャラに狭まった話ではなくて、人間について深く知りたいと思うようになり、文化人類学や心理学や社会学などに興味が持てたのは良かったので、そんな勉強がこれからできたら楽しいかなと思うけれど、こんな一連の興味関心の変化が二回の大学中退を伴っているのは本当に馬鹿らしいと思う。辞める際はいつも「わからないことにぶつかるのは未熟だからだ、もっと突き詰めて勉強すればわかることも増えるから、今辞めるのは勿体無い」と思っていたし、結局辞めることになった一番の原因は心身の崩壊だったから、そんなに自分を恥じてはいないけど、やっぱり悔しいなと思う。

今、初めてアルバイトもしていない本物のNEET(Not in Education, Employment or Training)になって、大学にもう一度だけ縋り付いてみようと予備校(私は予備校はin educationにカウントしない)に通ったりしてみているけれど、なんだか未来が覚束なくて、相変わらず情緒不安定で、体調が悪くて、ぐったりしている。学びたいことはあるけれど、大学生活自体が不安すぎてモチベーションが上がらなかったり、志望校が定まらなくてモヤモヤして、色々重なって憂鬱だ。そんな状態をさらに情けなく思って憂鬱だ。誰かに相談したいと思っても、心療内科の先生とカウンセラーと他の一人とか二人くらいにしか本音で相談できそうにない。小さい頃から広い世界に興味を持って生きてきたのに、今はこんなに狭い狭い世界に閉じこもっていて、なんだか皮肉だなぁと思う。

まだまだ、グローバルエリートへの道は長い。(特になる気もない)

神様がいない

神様がいない今、思考の先端で待ち受けているのも、選択肢から一つを選ぶ決定権を持つのも、自分自身なのだ。

深い思索の行く末に、眠り方を忘れた長い夜のベッドランプの光の中に、神様はいない。

読みづらい哲学書の行間にも、自己啓発サイトに貼られた写真の外国人の笑顔の中にも、よく見ると自分しかいない。

私たちは私たちを盲信することを強制されている。それが出来なければいけないのだ。出来なければ。

私に神様はいない。いるのは私だけなのだ。

ひどく春な日

ひどく彩度の高い日だった。

空も海も山もあまりに青いものだから、私は真っ白なシャツを着た。

母の日のプレゼントに、ふっくらした蕾のたくさんついた、赤いカーネーションを買った。咲ききった花は、あとは散るだけだと思ったから。

 

レースカーテンがゆっくりと呼吸をしている。

この呼吸が記憶を呼び起こす。

5歳とか、6歳の記憶。まだ犬のミミちゃんがいた頃。一緒に窓際で寝転がり、呼吸を肌に感じながら、庭のみんなを眺めた。

蝶々が踊って蜂が泳いで、草木は風に小さく揺れ、国道からは車の音。片方の脚の脛だけが、太陽に当たってあつい。

全く同じような顔をした、全く違う時が流れている。

 

私には居場所がない。

この家を出た三年前のあの日から、私には居場所がない。どこにいても後頭部が引っ張られるように痛み、足は浮腫んでいて、少し眠い。

なんてわがままなんだ、と思う。

 

私はどこにいても満たされない。

刺激を求めて動き回っては、疲れてその場に座り込んでしまう。気づいたら知らない場所にいて、不安になって、唇と指先が痺れるほど強く呼吸をする。

なんて不器用なんだ、と思う。

 

洞窟に映る自由の影を見つめ、それが影だと知りながらも、触れたい手に入れたいと、手を血まみれにしながら奥へ奥へと掘り進んできた。

そろそろ私は、洞窟の壁に目を逸らし始めた。

そこには何もない、何もない。

恐ろしいほど何もなくて、誰もいない。

看板もなければ時計もなくて。

 

 

近くの山へ登った。

長い海岸線を縁取る何色もの青と緑、それから柔らかな黄色、人の粒々。

どうして好きな気持ちは、それだけで存在してくれないんだろう。好きな気持ちは、いつも余計なものを巻き込んで、思考の終いには悲しくさせたりするんだろう。

好きで、そばにあって、それだけじゃ、どうしていけないんだろう。

 

鮮烈な春は、優しすぎる人たちは、幸せすぎる出来事は、嘘っぽくて泣いてしまう。ひどく良い日だった。明日もきっと、こんな調子なんだろう。

 

感覚と差異のこと どうでもいいこと

空気には重さがある。水中を歩いているかのようにかき分けて進まなければならない感覚を覚えることもあれば、やけに抵抗なくスイスイと歩いたり走ったりできることもある。

 

私は小さい頃から、目を信じられなくなることが度々ある。見えているものが全てではないような、他人事を眺めているような気がする。私人間から見えている世界と、他の生き物たちから見えている世界は違う。色、焦点の位置や数、鮮明さ、立体感、主体からの見え方には色々な違いはあるだろうけど、物体そのものの存在は確かで同一だとされているんだろうと思う。だけどそうなんだろうか、私に見えないものが本当は存在しているんじゃないだろうか。私に見えないもの、聞こえないもの、肌に触れないもの、きっとあるだろうに、私は感受できるものだけを信じるしかないのか、あるのに、気づかず、終えてしまうのか。

 

科学を駆使すればきっと知り得る範囲は広がるだろう。音波や微生物を目視できるだろうし、他の生き物たちが見ている世界を少しは体験できるかもしれない。私は社会科学が好きだから理系の学問には足を浸さないけど、物理化学生物なんかの高次元な話が理解できたらさぞかし楽しかろうと思う。きっと時間や生命など大きな概念に対する解釈も変わったりするんだろう。

 

最近は、視界の様子がよくない。すぐに現実味を失う。テレビで映像を見ているような、変な客観視が入る。そこに自分は属さなくて、自分には居場所がないのだと強く思う。家族も他人に感じるし、絶対的な存在であるはずなのに、そばにいるのに、孤独がつきまとう。いくら交友関係がひどく狭い私でも、家族はいつでもそばに、味方に感じた。それすら失う気分は、痛みを忘れるほど悲しい。軽い離人症なのかもしらないけど、この場合名前は意味を持たない。

 

 

最近は予備校に通い始めた。自分の体調への考慮と、海外生活をするための自信とモチベーションの低下から、再度日本の大学を受けることにした。大学へ通い出すたびに不安障害になるようなら、いっそ働くか全日制大学は諦めてしまえばいいのにと、外部から言うのは簡単だと思う。正直自分の中にもそう叱る人がいる。だけど、不安に苛まれ体が動かなくなることへの恐怖より、好きな勉強をして知見を広げその上で仕事を選びたい気持ちの方に、常に軍配が上がっているから、そうは簡単に諦められない。勉強がしたくなければ、大学なんて最初の中退後にとっとと諦めている。

 

私が海外の大学を選んだのは、主に日本の大学に行きたくなかったからだ。一度思い出に汚れた音楽は再度聞きたくなくなるように、日本の大学というものに関わりたくなかった。そこにまた踏み入れようとしている。想像するだけで怖いし、泣いてしまうほど不安。だけどこの選択の理由は十分用意したし、不備はない。勉強したいことは決まっているし、学生時代にやりたいことはたくさんある。周りが年下ばかりでも、まあやっていけると思う。問題は、無自覚なうちに体と心が蝕まれていき体力もやる気も失い授業に出られなくなる、あの恐ろしい展開になる事態を、どう食い止めるかだ。それはこれから受験生として過ごす約一年の間に、緩やかに解決していけたらいいなと思う。

 

正直、まったく不本意だ、全てが。上手くいかなすぎる。本当に悔しいし上手くいっている人が憎い。いくら大学生活が孤独で退屈でつらいと主張されても、それは浮気した側のたわ言ようなもので、立っている土俵が違うので聞きようがない。誰だって悩みがあるのは当たり前だろうが、人と人の関係は必ず社会的要因を介し、その客観的事実を置いておいて精神論だけで語るのはときに不適切だと私は思う。それは差別問題にも通ずる。みんな同じ、ただ存在する、それでいいじゃない、な訳がない。差別はあらゆる制度によって構造化されているし可視化されているのに、その事実を置いて"感情"だけで解決しようとするのは無理があるしあまりに雑だ。

 

世の中に高卒の人もたくさんいるじゃない、と言うのは簡単だし事実だ、けれど、私の歩んできた人生においては圧倒的に大卒の人間の方が多いのだ。それは想像すればわかるんじゃないだろうか。だから疎外感や焦りを感じてしまうのであって、そんな励ましならせずに金でも落としてくれ。自分は人と違うという意識で壁を作るからいけないのよ。確かにそうだろう、その意識を作っているのは私自身であって、自身の首を締めているようなものだ。だけど高校や大学の友達で、私と同じようにレールを外れた人を私は知らない。違うのだ、選択が。壁を作っているのは私だけではないと言いたい。私はどちらかというと、壊さなければいけない立場だ。

 

私に限った話でなく、人と人の差異に関する問題では、社会的または科学的な事実を無視した激励や解決方法の提示が本当に嫌いだ。私たちの心理は漠然とした大多数の行動や思想や歴史に、いちいち紐付けされていると思っている。何も介さずに行われる異常に近いコミュニケーションも存在して、それは特異で魅力的だけれど、非常に限られた人間としか成立できない類のものだと思っている。

 

ちっぽけな差だろう、私のしてきたこと、中退とか、自傷行為とか、大したことではないと言えるだろう。それでも同じであることが求められる文化の中では特に、息苦しく感じてしまう場面が多々ある。それでも差を受け入れつつ、壁を内部から壊しつつ、その破片を拾い集めて自信に変えるくらいの勢いを持って、なんとか生きていくしかない。理解を求めたいわけでもないし、人に話すのは面倒くさい。だからブログに書いた。なんて無駄なんだろう。ああ、この時間を勉強に裂けばよかった。はあ。

 

とにかく、また私は出発することにした。しばらくは福岡の地で、わざと視野を狭めて受験勉強に専念してみようと思う。拡大と収縮の繰り返しの、収縮のフェーズに入っただけだと言い聞かせようと思う。生命活動だって文化だって、そうやって進んでいくものでしょう、多分。それなら従おう。

疲れた

リセットしようと思う。

 

19歳で福岡を出て以来、内的にも外的にも、随分と私は変化した。覇気がなくなったし、多分すごく不細工になった。

この3年間、本当に長かった、本当に疲れた。生きるために生きるのに疲れた。生きたくないのに、仕方ないから何かに縋り付くような生活に飽きた。目標を作って猛進したらすぐに怪我をするし、また走り出しても、今度は足がガクガクと震えて動かなるし、上手くいかなすぎる。

苦しい過去にも意味を持たせる、明るい未来を見据える、現在を構築する。その姿勢でやってきた。けどもう、過去はいい、放っておこうと思う。

自身を生き恥だなんて思うこともあるけど、別に恥ずかしいから、人に知られたくないから、過去を葬りたいわけではない。無論人に話しづらいことはしてきたけど、自分に恥じるようなことはしてこなかったから。大変だったけど、新しいものには存分に触れて楽しかったし、総合点は結構高めにつけてあげられる。

 

この地にいると、この地を離れていた数年間が夢だったような気がする。特にイギリスにいたなんて、私が捏造した記憶なんじゃないか、頭で虚実が混同しているだけなんじゃないかと思ったりする。認知症の祖父が、世界一周の思い出を高らかと語るように。リアカーを引いてアメリカ大陸を横断したそうだ。アフリカではサバンナを一人彷徨ったそうだ。随分楽しそうに語るものだった。

私は幻想にうなされるのをやめようと思う。

恐ろしい悲しい幻想なんて、所詮ないものと切り捨てればいい。それが全て虚構だとしても、楽しい思い出だけを都合よく残せばいい。

 

ダウントゥーアース。浮き足立っていた私は、しばらくこの地に足をつけて、背筋を伸ばしたり肩を回したりしながら、綺麗な景色でも見ていようと思う。もう疲れた。

実家

此処は、全てが驚くほど近い。

 

此処にいると、想像力を働かせなくとも、考えなくとも、最短距離で全てが入ってくるから、不思議なほど力が抜ける。記憶、感情、知識、自然に働く力、光や風や引力、色や形、音、とても優しい方法で私の中に入ってくる。

 

靡いてサラサラと音を奏でる葉、以前より錆びた理容室の看板、変わらず堂々たる橋、開発の進んだ街のピカピカしたマンションの窓、耳をつく学校のチャイム、よく寝っ転がった大きな石、雀を拾った通学路に立つ木、寂しそうに下を向く花、忙しなく飛び回るシジュウカラ、広くなった道路の濃い色をしたコンクリート、狭くなった川の静かで強い動き、重たくてかたい毛布、コートについた猫の毛、傷だらけのフローリング、中学の文化祭のバザーで買ったオオハシの嘴が取手になってる使いにくいマグカップ、イギリス土産に両親にあげた紅茶を入れる缶、勇ましい顔をしたスーツケース、父がくれたパスポート入れ。

 

家の中にいても、外にいても、近い、近い、近い。

知ってる、知ってる、知ってる。

見える、触れる、聞こえる、わかる。

 

感覚情報が私に入って来たとき、潔く深いところまで来てくれる。怖くなくて、不安がなくて、色が鮮やかで、しっかりしてる。

 

 

初めて東京へ訪れたのは、2013年5月。

 

下北沢を歩いた時に、今までにない感覚があったことを忘れない。知らない画が、思い出が、頭になだれ込んできて、痛くてたまらなかった。ここにはいられない、と直感的に思った。理由はわからなかった。

 

にも関わらず夢を叶えるステップを踏むため上京したのは、2014年3月。

 

それから今まで、実家に逃げ帰ることだけは避けて来た。医者に言われようが拒否した。何がなんでも実家に住むのだけは嫌だった。家族は大好きだけど、一度出た家に戻る弱い自分を許せなかった。

 

それがなんだ、年末年始の休暇を終えイギリスへ戻るフライトを控えた数日間、私は世界一弱い留学生だったと思う。イギリスに戻りたくない、戦場に行きたくない、帰りたくない、帰りたくない、無理だ、私には無理、まただめになるんだ、フライト中にパニックになったらどうしよう、向こうで倒れたらどうしよう、怖い、怖い、怖い、怖い。初めてあんなに戦場へ向かうことを恐れたと思う。

 

今実家で療養という名の下、毎日虚空を見つめながら、鳥のことを考えたり、気の向くままに泣いたり、笑ったりしながら生活しているけれど、なんてここは疲れないんだろうと思う。

 

私は多分、この三年間で、刺激を受けすぎた。広すぎる世界を、小さい頭に詰め込みすぎた。知らなくていいこともたくさん知ってしまった。それは不条理な運命の存在だったり、善悪の境の薄さだったり、異性だったりする。ここに帰って来て私は、自分で思っているより、自分がいわゆる感受性が強いことを確信しつつある。それが弱みであるか、強みであるかは、知らないし、知りたくもない。

 

 

私には選択肢がたくさんある。時間も、お金も、問題なく動く身体も、家も、家族も、兄弟も、なんでも持っている。なんて恵まれた身なんだろう。でも、誰がこれを望んだというんだろう。誰が、幸福になることを、強制されなければならないんだろう。

 

誰が、幸福を図れるだろう。ものさしはない。

 

平等なんてない。ないからこそ存在する概念だ。ないからこそ人は求めるだけだ。

 

 

 

実家は食べ物が美味しい。

実家は猫がいて癒される。

実家は満たされすぎて、満たされない。

実家は、幸福を強制してこない。

 

この場所が私の生まれた場所。情報が、煩わしい社会フィルターを通らず、直接私の奥へ奥へ届く。世に汚れていない、小さな小さなマトリョーシカが心に現れる。小さな小さなマトリョーシカも、外気に触れれば、すぐに汚れていく。陽に当たり、陰を探す。雨に濡れ、大気のゴミが付着する。

 

実家は満たされすぎて、満たされない。

いつだってそう!

奇麗な女と私の話

高校を卒業して以来、ほとんど小説を読んでいない。

 

大学を休学して療養していた頃に神保町の古本屋を渡り歩いていて手に取ってみた本が最後だと思う。それだって、最後まで読み終えなかった。話はぼんやり覚えているけれど、タイトルも著者も覚えていない。「愛」が入ってた気がする。あと、麻薬か、武器か、何か刺激の強い言葉もタイトルに入っていた気がする。でも全然覚えてない。

 

原始時代に洞窟で思索に耽り未来を見据えていた最も賢い男、世界大戦時に牢獄で過ごした男、そして現代を生きる普通の男。賢い男にはビジョンと野望があった。牢獄で過ごした男には賢い男、前世の記憶があったが、彼の思うようには動けなかった。弱い人間だったからだ。普通の男にも賢い男、前世の記憶があった。そいつが主人公だった。そいつが、女に出会う。賢い男が宿る肉体を変え探し求めていた像に近い女。それが私には厄介だった。女が出てくるまではなかなか面白かったのに。

 

普通の男は奇麗な女にパブで出会う。少しずつデートを重ね奇麗な女は自らを語る。奇麗な女は日本人ではなかった。裕福で、賢くて、美しくて、所謂完璧な人間だった。美貌と叡智を使い慈善活動に勤しんだ。けれど、常に「何かがおかしいわ」と口にしていた。いくら他人の幸福のために働いても世界が一向に良くならない、何かがおかしい、そういつも思っていた。奇麗な女はある時自らの生きる世界を捨てる。誰も想像がつかないほど深い深い社会の底へと落ちる。薬物に依存し性を売りゴミ溜めで生きた。その後紆余曲折あって(あまり覚えていない)、三十歳近くなった奇麗な女は日本で反捕鯨団体で時々活動しながら生活していた。

 

この二人に何があったのか知らない。女がどんな人間なのか詳しく知らない。多分その女が普通の男と仲良くなり始めたあたりから文章が色めき立ち始めて興味が失せたのと、反捕鯨を結構推してくるのが気に食わなかったんだと思う。

 

私はその奇麗な女が嫌いだった。私は金持ちではないし頭も良くないし美しくもないけれど、そうなりたかったのかもしれないし、彼女の感覚に自分の感覚に重なるものがあったのかもしれない。人の羨むものを全て持ち、人が尊敬することをやり、それなのに世界は変わらない、それどころか、世界は悪くなるばかり、世界の汚ればかりが肌から、目から、耳から、全ての侵入ルートから入り込んでは自分を蝕んでいく、黒い沈殿物が溜まりに溜まっていくのを感じる、何もかも捨てたくなって、吐きたくなって、わからなくなって、糸が切れたように我を見失う、彼女が理由もわからず嫌だった。

 

その本を読んだ頃私は薬無しでは生活できなかった。生きるためだけに生きていてた。そこに理由も目的もなくて、ただありもしない「普通」のためにあがいていた。毎日足を切り落としてくれ腕を切り落としてくれと願っていた。満たされているから悪い、私は幸せになるべきなのになれないなんて間違っている、この体を全うできないなら死んだ方がマシだと思っていた。

 

 

三が日が終わった四日の朝、小説を読まなくなったのは問題だなと考えた。

 

あれ以降、私は歴史の本とか、国際関係学の本とか、鳥類の本とか、考古学の本とか、哲学の本とか、現実のことが書かれた本ばかり読んだ。数は多くないけれど。私は真実ばかり追い求めるようになってしまった。尤もらしくて、手垢まみれの、事実と概念に酔ってしまった。導いてくれるような気がしてしまった。物語を読んで自分の想像力を使ったところで、私は楽になれないと思っていた。

 

そもそも、私の想像力がもっと欠如していれば苦しむこともなかったんだと思い込んでいた。知らない人の心の痛みを感じなければ、個人に社会を見なければ、自分のためだけに動ければ、こんなに心を病むこともないのだと、あらゆる感覚を閉ざそうとした。感情を悪者にして、殺そうとした。辛い、悲しいと感じたら、理性を引っ叩いて働かせ感情を罰した。私はきっとこういう理由で悲しい、こうだから不安、でもそんなことない、だからこう考えれば大丈夫、そうそう、悪いのはホルモンだから。そうしなきゃ漠然とした不安に勝てなかったし、いつまでたっても「普通」になれないと思っていた。それが正しい治療だと思っていた。いつか絶対治したかった、とにかく治したかった。普通に生活したかった。ありもしないのに。普通なんて。

 

私は小説を読むのをやめ、想像力を邪険に扱っては感覚を閉ざし、感情も社会から私を排他するからと悪者扱いしては罰するようになって、随分と自分を見失ってしまった。

 

 

いい指標になっていると思うのは、創作意欲の衰退。高校を卒業するまでは創作意欲に溢れていたのに、もうすっかりなくなった。何かを見たり聞いたり読んだりして、自分から生まれてくる音楽を形にしたいと思っていたし、その欲求が頼りだったのに、あの感覚がもうずっと昔のことのように感じる。小学生の時に戻れたらいいのにとよく思う。帰路の途中、お気に入りの温かな大きな石の上で寝転んで、ボーッと空想していた。口ずさんだメロディーを忘れないように溢れないように急いで家まで持ち帰って、ピアノに向かって音にして、一人満足していた。いつかちゃんと曲にしよう、技術と機会を得て、形にしてみたい、その希望に突き動かされて生きていたのに。すっかりなくなってしまった。

 

そんな絶望的な気持ちを持ち始めてもう2年以上経つけれど、私の中に音楽はまだ生きているんじゃないかなと人に言われたことがあって、ひどく嬉しかった。今年の夏にノルウェーを訪れた時、フィヨルドを眺めるクルーズ船から、ゴツゴツした岩肌と白いしぶきを上げながらそこを下ってゆく水を見て、音楽が流れた。たくさん流れた。びっくりした。急いでよく持ち歩いている安いPCMレコーダーに録音した。まだ生きているんだなあと思った。一度死んでしまった私の感覚が、少しずつ戻ってきているような気がすることが、留学生活を始めてから度々あるんだけれど、数を重ねるごとに心が潤う感じがしている。

 

私は頭の中に何人もの人がいて、仲良くしたり会議をしたり喧嘩をしたり忙しくしている。メインキャラクターは理性と感情で、サブキャラクターも色々いる。病んでいた頃に常に頭の中にあった真っ黒な何かは、今思うと、傷つけられた感情たちだったのではないかと思ったりする。漠然とした不安や恐怖、とにかく真っ黒で、牙があって、目が赤くて、私の体を刃で傷つける、怖いやつら。あれは、もしかして私が罰して殺そうとした感情たちだったのではないのか。そうすると筋が通る。彼らは私が音楽を生むこと、人と話すこと、非現実に思い馳せること、文章を書くこと、あらゆる表出や現実からの離脱によって許され、解放されているのではないか。

 

 

好きだったはずのことへ興味がなくなるのは悲しくて苦しい。

体の一部をもぎ取られたようだ。

 

私は人と話すのがあんまり得意じゃなくて、世間話で時間を潰すことができない。自分語りをしても、別に満たされない。人の話には滅多に興味を持てない。だからこそ、好きなことというのはいつだって大事だった。音楽を聞くこと、奏でること、絵を描くこと、本を読むこと、物語を書くこと、生き物を観察すること、空想に耽ること。感覚を研ぎ澄まして、想像力をフル活用させることが好きだった。嬉しい、悲しい、楽しい、不安、なんだか気持ちがいい、なんだか不快。感情に身を任せて自分の世界で飛び回っていた。

 

ああ、そんな小さい頃に好きだったことが私を作り上げているのに、私はそれらを無視してしまったのかもしれない。大人になるということを勘違いしていたのかもしれない。いくら理論的に物事を捉えようとしても、理性を信奉しても、きっと私は満たされないんだろう。

 

こんなことを、今朝目覚めた時に考えていた。

 

 

実家のベッドから本が見えて、手を伸ばして手に取ってみたら、どれも重松清の小説だった。全然興味がなくて、元に戻した。私も小説が好きだった頃があったなあ、図書館は数え切れない人の考えや記憶で膨らんだカラフルな風船で埋め尽くされた、夢のような場所だと認識してたなあ、なんて思い出した。

 

人生は失っては何かを得る、その繰り返しだと聞いたことがあるが、失ってはいけないものもあるんじゃないか、そう思った。私は失くしたものを取り戻したい。世界が変えられなくても、自分の世界は変えられるから。私はベッドから身を起こした時、無性に、タイトルも覚えてないあの本の、あの奇麗な女のその後が気になってしまった。