The Migratory Bird

自分が渡り鳥だと勘違いしている社会不適合の書き溜め

奇麗な女と私の話

高校を卒業して以来、ほとんど小説を読んでいない。

 

大学を休学して療養していた頃に神保町の古本屋を渡り歩いていて手に取ってみた本が最後だと思う。それだって、最後まで読み終えなかった。話はぼんやり覚えているけれど、タイトルも著者も覚えていない。「愛」が入ってた気がする。あと、麻薬か、武器か、何か刺激の強い言葉もタイトルに入っていた気がする。でも全然覚えてない。

 

原始時代に洞窟で思索に耽り未来を見据えていた最も賢い男、世界大戦時に牢獄で過ごした男、そして現代を生きる普通の男。賢い男にはビジョンと野望があった。牢獄で過ごした男には賢い男、前世の記憶があったが、彼の思うようには動けなかった。弱い人間だったからだ。普通の男にも賢い男、前世の記憶があった。そいつが主人公だった。そいつが、女に出会う。賢い男が宿る肉体を変え探し求めていた像に近い女。それが私には厄介だった。女が出てくるまではなかなか面白かったのに。

 

普通の男は奇麗な女にパブで出会う。少しずつデートを重ね奇麗な女は自らを語る。奇麗な女は日本人ではなかった。裕福で、賢くて、美しくて、所謂完璧な人間だった。美貌と叡智を使い慈善活動に勤しんだ。けれど、常に「何かがおかしいわ」と口にしていた。いくら他人の幸福のために働いても世界が一向に良くならない、何かがおかしい、そういつも思っていた。奇麗な女はある時自らの生きる世界を捨てる。誰も想像がつかないほど深い深い社会の底へと落ちる。薬物に依存し性を売りゴミ溜めで生きた。その後紆余曲折あって(あまり覚えていない)、三十歳近くなった奇麗な女は日本で反捕鯨団体で時々活動しながら生活していた。

 

この二人に何があったのか知らない。女がどんな人間なのか詳しく知らない。多分その女が普通の男と仲良くなり始めたあたりから文章が色めき立ち始めて興味が失せたのと、反捕鯨を結構推してくるのが気に食わなかったんだと思う。

 

私はその奇麗な女が嫌いだった。私は金持ちではないし頭も良くないし美しくもないけれど、そうなりたかったのかもしれないし、彼女の感覚に自分の感覚に重なるものがあったのかもしれない。人の羨むものを全て持ち、人が尊敬することをやり、それなのに世界は変わらない、それどころか、世界は悪くなるばかり、世界の汚ればかりが肌から、目から、耳から、全ての侵入ルートから入り込んでは自分を蝕んでいく、黒い沈殿物が溜まりに溜まっていくのを感じる、何もかも捨てたくなって、吐きたくなって、わからなくなって、糸が切れたように我を見失う、彼女が理由もわからず嫌だった。

 

その本を読んだ頃私は薬無しでは生活できなかった。生きるためだけに生きていてた。そこに理由も目的もなくて、ただありもしない「普通」のためにあがいていた。毎日足を切り落としてくれ腕を切り落としてくれと願っていた。満たされているから悪い、私は幸せになるべきなのになれないなんて間違っている、この体を全うできないなら死んだ方がマシだと思っていた。

 

 

三が日が終わった四日の朝、小説を読まなくなったのは問題だなと考えた。

 

あれ以降、私は歴史の本とか、国際関係学の本とか、鳥類の本とか、考古学の本とか、哲学の本とか、現実のことが書かれた本ばかり読んだ。数は多くないけれど。私は真実ばかり追い求めるようになってしまった。尤もらしくて、手垢まみれの、事実と概念に酔ってしまった。導いてくれるような気がしてしまった。物語を読んで自分の想像力を使ったところで、私は楽になれないと思っていた。

 

そもそも、私の想像力がもっと欠如していれば苦しむこともなかったんだと思い込んでいた。知らない人の心の痛みを感じなければ、個人に社会を見なければ、自分のためだけに動ければ、こんなに心を病むこともないのだと、あらゆる感覚を閉ざそうとした。感情を悪者にして、殺そうとした。辛い、悲しいと感じたら、理性を引っ叩いて働かせ感情を罰した。私はきっとこういう理由で悲しい、こうだから不安、でもそんなことない、だからこう考えれば大丈夫、そうそう、悪いのはホルモンだから。そうしなきゃ漠然とした不安に勝てなかったし、いつまでたっても「普通」になれないと思っていた。それが正しい治療だと思っていた。いつか絶対治したかった、とにかく治したかった。普通に生活したかった。ありもしないのに。普通なんて。

 

私は小説を読むのをやめ、想像力を邪険に扱っては感覚を閉ざし、感情も社会から私を排他するからと悪者扱いしては罰するようになって、随分と自分を見失ってしまった。

 

 

いい指標になっていると思うのは、創作意欲の衰退。高校を卒業するまでは創作意欲に溢れていたのに、もうすっかりなくなった。何かを見たり聞いたり読んだりして、自分から生まれてくる音楽を形にしたいと思っていたし、その欲求が頼りだったのに、あの感覚がもうずっと昔のことのように感じる。小学生の時に戻れたらいいのにとよく思う。帰路の途中、お気に入りの温かな大きな石の上で寝転んで、ボーッと空想していた。口ずさんだメロディーを忘れないように溢れないように急いで家まで持ち帰って、ピアノに向かって音にして、一人満足していた。いつかちゃんと曲にしよう、技術と機会を得て、形にしてみたい、その希望に突き動かされて生きていたのに。すっかりなくなってしまった。

 

そんな絶望的な気持ちを持ち始めてもう2年以上経つけれど、私の中に音楽はまだ生きているんじゃないかなと人に言われたことがあって、ひどく嬉しかった。今年の夏にノルウェーを訪れた時、フィヨルドを眺めるクルーズ船から、ゴツゴツした岩肌と白いしぶきを上げながらそこを下ってゆく水を見て、音楽が流れた。たくさん流れた。びっくりした。急いでよく持ち歩いている安いPCMレコーダーに録音した。まだ生きているんだなあと思った。一度死んでしまった私の感覚が、少しずつ戻ってきているような気がすることが、留学生活を始めてから度々あるんだけれど、数を重ねるごとに心が潤う感じがしている。

 

私は頭の中に何人もの人がいて、仲良くしたり会議をしたり喧嘩をしたり忙しくしている。メインキャラクターは理性と感情で、サブキャラクターも色々いる。病んでいた頃に常に頭の中にあった真っ黒な何かは、今思うと、傷つけられた感情たちだったのではないかと思ったりする。漠然とした不安や恐怖、とにかく真っ黒で、牙があって、目が赤くて、私の体を刃で傷つける、怖いやつら。あれは、もしかして私が罰して殺そうとした感情たちだったのではないのか。そうすると筋が通る。彼らは私が音楽を生むこと、人と話すこと、非現実に思い馳せること、文章を書くこと、あらゆる表出や現実からの離脱によって許され、解放されているのではないか。

 

 

好きだったはずのことへ興味がなくなるのは悲しくて苦しい。

体の一部をもぎ取られたようだ。

 

私は人と話すのがあんまり得意じゃなくて、世間話で時間を潰すことができない。自分語りをしても、別に満たされない。人の話には滅多に興味を持てない。だからこそ、好きなことというのはいつだって大事だった。音楽を聞くこと、奏でること、絵を描くこと、本を読むこと、物語を書くこと、生き物を観察すること、空想に耽ること。感覚を研ぎ澄まして、想像力をフル活用させることが好きだった。嬉しい、悲しい、楽しい、不安、なんだか気持ちがいい、なんだか不快。感情に身を任せて自分の世界で飛び回っていた。

 

ああ、そんな小さい頃に好きだったことが私を作り上げているのに、私はそれらを無視してしまったのかもしれない。大人になるということを勘違いしていたのかもしれない。いくら理論的に物事を捉えようとしても、理性を信奉しても、きっと私は満たされないんだろう。

 

こんなことを、今朝目覚めた時に考えていた。

 

 

実家のベッドから本が見えて、手を伸ばして手に取ってみたら、どれも重松清の小説だった。全然興味がなくて、元に戻した。私も小説が好きだった頃があったなあ、図書館は数え切れない人の考えや記憶で膨らんだカラフルな風船で埋め尽くされた、夢のような場所だと認識してたなあ、なんて思い出した。

 

人生は失っては何かを得る、その繰り返しだと聞いたことがあるが、失ってはいけないものもあるんじゃないか、そう思った。私は失くしたものを取り戻したい。世界が変えられなくても、自分の世界は変えられるから。私はベッドから身を起こした時、無性に、タイトルも覚えてないあの本の、あの奇麗な女のその後が気になってしまった。

イギリス留学・ファウンデーション総括

こんばんは。奥です。12月中旬某日にエッセイの提出と試験を終え、直後にオランダ・アムステルダム、ベルギー・ブリュッセル、ドイツ・ケルンを風の速さで旅してまわり、現在一時帰国しています。今は故郷である福岡・糸島の地で、例年通りのあたたかで美味な年末を過ごしています。

 

ブログを書くのは久々です。というのも、ブログを書くとなると、タイムラインに言葉が流れていくツイッターで呟くのと何か違い、変に発信している自覚が付きまとうので、手が伸びないのです。高校を卒業して以来、人に何かを伝えたい、内なるものを表出したい、そのためのエネルギーを、ゆっくりポケットから垂れ流し続けているように思います。が、まあ年末ですし、記録のために、とりあえず何か書くかな、と思い立ち、はてなブログを開いてタイピングし始めた次第です。

 

今のBGMはベルギーの楽器博物館で手に入れた、世界中のあらゆる時代と地域に存在したおかしな楽器の音源が収録されたアルバムです。面白い音がたくさん入っていて大興奮なのですが、これについてはまたいつか書くかもしれません。とりあえず、ベルギー・アントワープにある110年の歴史を持つフェアグランドオルガンが奏でるクイーンのボヘミアン・ラプソディーでも置いておきます。

 

youtu.be

 

このフェアグランドオルガンは81本の鍵盤と350本のパイプで構成され、ドラムやトライアングルやシロフォンなどの打楽器も無人で演奏します。楽器の裏側で流れゆくブックと呼ばれる穴の空いた厚紙の譜面が、モロDTMの画面を同じで大興奮しますね。

 

 

ここからがメインコンテンツなんですが、今日は1月から7月末までに私が経験したファウンデーションコースについての総まとめをしようと思います。まとめサイトのライターになる気はないので、あんまり他の紹介サイトに書いてないことや個人的な経験や見解をなるべくたくさん入れて書こうと思います。

 

ファウンデーションコースとは

以前も書いた気がしますが、ファウンデーションコースとは、イギリスの大学に1年次から正規留学したい、一般的な教育過程を踏んできた日本人がイギリス国内で取らなくてはならない、謂わば大学準備コースです。多くの大学が名称は違えど同じようなプログラムを持っており、行きたい大学が提供するコースを受講し、一定基準以上の成績を修めれば晴れて大学1年生になれる、というわけです。小さい頃からインターナショナルスクールに通っていたり、早い段階で海外の大学を志望する人は、独自で向こうの試験を受けたりして、高校から直接入学することも可能ですが、詳しくないので省きます。そもそも準備期間を経なければいけない理由は教育制度の違いにありますが、説明が難しいので気になる方は外部のページを読んでみてください。参考:

ファウンデーションコース / Foundation Course :イギリス留学・ロンドン留学なら手数料無料の現地エージェント!ロンドン留学センター 

16歳からの教育 | Education UK (Japan)

 

ファウンデーションコースにも前年の夏に始まるコースや同年の冬に始まるコース、更に約1年のコースと約半年のコースなど、様々な選択肢がありますが、私は1月始まりの約半年のコースでした。約半年のコースの方が入学条件となるIELTSのスコアは少しだけ約1年のコースより高いのですが、といってもどちらを選ぼうとOverall4.5〜5.5程度なので、決して難関というわけではありません。そしてファウンデーション期間に達成することを定められているのはIELTS6.0相当の英語力です。期間が短いとその分準備のための語学に集中できる時間が足りず語学力不足のまま入学となってしまうのではないかという不安はあれども、語学だけなら日本国内でもできるし、費用のことを考えると半年コースの方がお得かなとは思ったりします。ファウンデーションを始める前になるべく国内で英語力をあげておくとかなり楽で、生活の質が違うと思います。

 

出願の仕方

いろんな出願ルートがあると思いますが、私を含む多くの一般的な学歴を持つ日本人は、留学エージェントのサポートのもと出願します。留学エージェントは、出願手続きの手伝いやアドバイスをしてくれるのですが、無知な私にはかなりありがたい存在でした。手続きの流れを教えてもらい、大学選びの相談に乗ってもらったり留学フェアの紹介をしてもらったり、ビザ手続きの手ほどきをしてもらったり、UCAS(参照:イギリスの大学・大学院に進学するなら知っとかないといけない、UCASについて | わたぽんWorld-UK)を使った実際の出願も手伝ってもらいました。私は必要なかったので利用してませんが、必要な人は自己推薦文(Personal Statement)の添削もしてくれるそうです。ビザ手続きサポートだけは有料でしたが、それも5000円しなかったし、それ以外はなんとすべて無料でした。

 

ファウンデーションの出願に際して必要だったのは、IELTSの成績証明書、高校卒業証明書(英文)、それから私の場合は一応中退した大学の在籍証明書(成績証明書を求められましたが大学ほぼ行ってなくて成績がなかったので(爆))、それくらいでした。ぶっちゃけ楽勝ですね。ビザはTier4 Visaという種類のものを取得しなければいけなかったのですが、日本国籍まだ強くて学生ビザで落ちることもほぼないみたいですし、エージェントさんを通して書類なども提出していたのでなんの問題もなく取得できました。

 

費用は?

費用に関しては、かなりシビアです。ビザ関連の手続きをしている時にも感じましたが、ここでもUKの外の人間からはとことんお金を巻き上げる姿勢が見て取れます。

 

具体的な数字を出すと、私の場合はUEAのファウンデーションでCourse Feeが£16,395(約240万)で、Accommodation Feeはホームステイを選んで£6,600(約95万)、その他諸々の教科書代やら保険代や入学費用やらデポジットを含めると総額は約£24,000(約350万)にまでのぼります。たった半年分です。それプラス往復の航空券代と留学保険代と毎月の生活費(食費はホームステイ代に含まれるので仕送りは少なくて済みましたが)が加わりました。約1年のコースだとどれくらいこの額が伸びるのかはわかりませんが、これより高いのではと思います。

 

驚くことに大学の学部のCourse Feeは1年間で£14,500とファウンデーションより安いです。にも関わらずファウンデーションで不十分な結果を出して入学が認められず母国へ帰っていく人もいる事実には更に驚愕でした。日本人はそもそも在籍数が少ないせいもあるでしょうが、落第する人は見たことがありません。

 

これはUEAに限らないのですが寮よりホームステイの方が料金は安いようです。家が学校から遠ければバスの定期代などもかかるのですが、それを考慮してもホームステイの方がお得な可能性は高いです。なぜならホームステイだと細かいですがお菓子代やベッド用品代や日用品代、時には移動費なども浮くからです。ホストファミリーにも当たりはずれがあるのでそこは賭けだと思いますが、学校やエージェントに相談すれば滞在先の変更が可能なので少しは安心です。

 

 

学校の雰囲気

INTO UEAはファウンデーションだけではなくディプロマ(学部1年次に相当する内容をINTO内で学び次の年から2年次へ編入するコースで、多くの大学にはないコース)や語学のみのコースなどもあり、いつも施設内は人にあふれていました。留学生しかいない空間なので多国籍な雰囲気ではありましたが、中国香港台湾出身の子達がやはり多かったです。毎日マンダリンとカントニーズばかり聞いていたので、本当にここはイギリスなのだろうか・・・と思うこともありました。日本人は私が滞在した期間には常に7人ほどが学校内に存在していたと思います。交換留学生や自費留学生の属する語学コースと社会科学系ファウンデーション・ディプロマに集中しており、自然科学系コースには私がいた期間では日本人を見かけませんでした。

 

スタッフの人たちのサポートはかなり厚く、とても安心して過ごせました。レセプションのお姉さんお兄さんたちはみんな優しいし、アカデミックオフィサーのお偉いさんであるおじさんはサバサバしてるけど超フレンドリーだし、なんでも相談できるクラスチューターもいるし、国内旅行やスポーツイベントなどを企画している明るいお姉さんもいたし、24時間対応のヘルプラインもありました。

 

 

ホームステイ or 寮 or 自分で家探し

私なりに滞在方法の長所短所についてまとめてみました。選択肢は大きく分けてホームステイ、大学の寮、自分で家探しだと思います。

 

ホームステイ

長所:費用が寮より安い、一般家庭の雰囲気を知ることができる、居場所がある海外に家族がいるという安心感がある、料理や洗濯などの家事を一切しなくていい、毎日英語で会話せざるを得ずネイティブの知識や感覚を盗むいい機会になる、困ったことを相談できるネイティブの存在が得られる(これが案外でかい)、ペットがいる可能性がある(私にとってはかなり大事)、何をするにも街に出なくてはならずサバイバル力がつく

短所:ハズレを引くと生活が台無しになる、学校が家から遠い可能性が高い、ルールが厳しい家庭だとルールを守るのが面倒臭い、気を遣わないといけない場面がある、食べ物が口に合わなくても多少我慢して食べるしかない、寮に住んでる友達と過ごす時間が減る、机が小さかったり寒かったり勉強にはあまり適してない環境に置かれる可能性がある、大学の図書館が遠い

 

大学の寮

長所:大学が近いのでギリギリまで寝られる、寮の友達とたくさん時間を過ごせる、過ごしたくなければ引きこもれる、大学の雰囲気を楽しめる、食事付きのプランなら料理しなくていい、掃除も少しはしてくれる、部屋が狭くて机が広い場合が多く図書館へのアクセスもいいので勉強には適している、セキュリティへの安心感がある、日本人の友達がそばにいる安心感もある

短所:費用が高い、海外生活感がホームステイより薄い、かなり主体的に動かないとネイティブとの接触が圧倒的に少なくなる、人間関係を築くことを強制されないので自分次第になる、何をするにもキャンパス内で済む場合が多く出不精になるかも、日本人がいるとどうしても絡みがちになる、キッチンやバスルームを学生と共有するとなると摩擦も生じやすい

 

自分で家探し

長所:やりようによっては費用が安く済ませられる、とにかく自由度が上がる(一人暮らし出来たり仲のいい友達と暮らせたりペット可の部屋を選べたりするし、学校やホストファミリーからの束縛がない)、海外サバイバル力が上がる

短所:物件探しや契約などに時間と労力がかかる、全てが自己責任、生活範囲内に頼れる人がいない、家事の負担がある、日用品代や食費も計算に入れなければならなくて面倒

 

ちなみに私はホームステイを選んだのですが、当たりだったので文句なしでした。詳しくは前回の記事を参照してください。

luna9167.hateblo.jp

 

 

何を学べるのか、どうやって進学するのか

各大学の提供するプログラムの内容は大きく違うのでUEAの場合だけで話すと、UEAのファウンデーションはINTOという組織と連携しており、INTO University of East Angliaという正式名称の施設で学んでいました。他にも多くの大学がINTOと連携してファウンデーションコースを開設しているようです。大学独自のコースを設けている場合もあります。コースの内容は多岐に渡るので、選ぶのはとても楽しいです。参照:Foundation Courses in the UK

 

私のコース名はHumanities and Lawでしたが、他にも私の学校にはBusiness, Economins, Society and Culture/Mathmatics and Actual Sciences/General Science/Pharmacy, Health and Life Sciences/Physical Sciences and Engineeringなどがありました。それぞれのコースで進学できる所属先大学の学部が限られています。大学と同様、社会科学系のコースより自然科学系のコースの方が授業も多く大変そうな印象でした。どこも英語クラスに加え、それぞれの専門科目といった構成です。

 

半年のプログラムだと3学期制で試験は2回あり、あとはコースワークの提出が評価対象でした。

Term 1 ー End of Term Exams(全科目分の試験:20%)

Term 2 ー Course work(英語クラスではプレゼン、各科目では800words - 1500wordsのエッセイ提出とプレゼンもしくはディスカッション形式の試験:20%)

Term 3 ー Final Exams(全科目分の試験:60%)

 

それぞれの課題や試験が全体の評価を占める割合は科目によって異なりますが、大体どれもこれくらいの配分になっており、1学期目であまりいい点が取れなくても努力して最後でいい点を取ればパスできる、という優しい仕組みになっています。しかし休みがあっても明けにはいつもテストか課題提出が待ち構えており、最初から最後まで気を抜けるタイミングはなく、忙しい日々ではありました。

 

タイムテーブルはこんな感じでした。

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これは多分Term2だと思います。Term1では数学がなかったのですが、Term2から追加されました。科目は全部で5つEnglish, Law, Society and Culture, International Studies, Mathsでした。英語のクラスと専門科目のセミナーは10人強、専門科目の講義は同コースのメンバー20人だったり、他のコースの人たちとも合同の場合は50人くらいだったり、様々でした。英語の授業は先生がフレンドリーで楽しかったし、エッセイの書き方を叩き込まれたりプレゼンを練習したりディスカッションをしたり、もちろん英語の試験対策と能力向上のためにIELTS対策のようにリーディングリスニングライティングスピーキングの勉強をしたりと、かなり有意義な授業でした。専門科目は最初は大変に感じたけど、先生たちが結構わかりやすく喋ってくれるし内容が面白かったので充実していました。特にSociety and Cultureは社会学Sociologyの導入編といった内容だったのですが、非常に興味深く一番好きな授業でした。

 

先生が女性だったこともありフェミニズムの話がよく出てきたのですが、ある日のフェミニズムに関するディスカッションを境に韓国人のフェミニストの女の子と仲違いをしてしまったりしました。今思うと、お互いの英語力不足による意思疎通の難しさのせいでことが大きくなり、関係の修正が難しくなってしまったなと思うし、言語力をあげて潤滑なコミュニケーションが取れるようになりたいなと思います・・・。優秀な彼女は今エディンバラ大学で開発学とフェミニズムに関する勉強をしているはずですが、連絡は取ってないです。いやー、人間関係は難しい・・・。

 

 

プログラムの内容について話を戻しますが、中間試験終了後にその結果を元にConditional Offer(条件付き入学許可証)がまず発行され(噂ではどんなに点が悪くてもほぼ全員これはもらえるらしいが、私はこれすら受け取れないのではないかとハラハラした)、すべてのプログラムを修了して成績を計算、大学の求めるスコアに達すればUnconditional Offer(条件なし入学許可証)が発行され正式に入学が許可されます。

 

もし他大に進学したいと思った場合も、希望の学部の内容とファウンデーションでの取得したクレジットの内容が対応していると判断され、相手大学側のRequirements(所属先大学が求める最低基準の成績よりも高い成績、特に英語のテストでの高い点数、またそれに加えIELTSの点数を求めてくることが多い)を満たせば、入学は可能です。なので、肩の力を抜いて大学を選ぶといいかなと思います。ただ!レベルの高い大学で得たファウンデーションのDegreeほど他大に行きたいと思った時に強力らしいので、最初にあまりレベルの低い大学のファウンデーションを選ぶより、ある程度レベルの高い大学のファウンデーションを選ぶ方が後々役に立つやもしれません。でもあまりに難しい大学だとついていけるかな、という不安もあると思うので、日本の大学と違って大学を偏差値で測れるわけではないイギリスの大学選びは、知識のあるエージェントの力を借りるのが有効なのかなと思います。

 

 

 

 

 

インターナショナルスクール出身で高い英語力があったり特に優秀な教育機関に通っていたりオクスブリッジを志望していたりなど、特殊な例を省き、至極一般的なルートでイギリスの大学に入学しようとすると、こういう流れになると思います。私は周りに留学経験者などおらずすべて一から自分で情報収集するしかなかったので、進学を決めた時にこの記事に出会っていたら、絶対に役に立ったと思いますね。はは。

 

半年間のこの経験について、個人的な感想としては、うーん、もっと勉強すべきだったなと思います。エッセイとか試験の点数を見る限りでは人並みに勉強したっぽいけど、クラスで一番ではなかったし(哲学好きのエジプト人の友達がいつも一番だった悔しい)、スピーキングはいつになっても弱いし、努力不足だなと常に感じていました。今も感じています。あと、もっと友達を作ればよかったなとも思います。海外へ留学というと、国籍の友達に囲まれてワイワイ!みんなで切磋琢磨!英語を使えるようになって新しい自分を発見!みたいなイメージがありますが、そういうハツラツとしたエネルギッシュな像に全然近づけてなくて、どちらかというとただ生きる場所を変えてみたなんかいつもつらそうな人って感じで、人影の少ないかなり単調な生活をしていたので、これでいいのかなあと思っていました。海外に出たところで自分が変わらないことは予期していましたが、ここまでとは思わなかったです。自分を劇的には変えられないとしても、せっかく海外に出させてもらっているので、なるべくたくさんの知識や新しい視点それから人脈という資本を得られるように、環境を上手に利用する努力しようと思います。

 

ポジティブな感想としては、当たり前ですが英文を読むことに対する抵抗がかなり小さくなったのが嬉しいです。得られる情報の幅が広がるのは強いなと思いました。昔から今の時代英語ができないと世界に置いていかれるに決まっていると思っていましたが、やーっと追いつけるかも、と思えてきました。それから大学生活に必要なエッセイの書き方を習得できたことや、英語で意思疎通を試みることへの恐怖が小さくなったことも功績です。あとは海外で家族に頼らず生活できるんだという自信もつきました。ありがちな感想ばかりですね。正直海外で生活したことに対して特別な感情がないし、今は次の試験とイギリスへ帰ってからの大学生活(つらい)への不安でいっぱいです。

 

 

ファウンデーションについてのまとめは以上です。3度目の大学1年生としての生活が遂に始まり、なんとか秋学期も終えたので、それについてまた書きたいなとは思っていますが、気まぐれなのでわかりません。また!

ノーリッチでの留学生活について

こんばんは、昨晩ほぼ徹夜でエッセイを書きあげた、デッドラインファイター奥です。

 

今日は私の住んでいる街とそこでの生活について書こうと思います。

 

イギリスについての基本的な情報は、他のサイトで調べて頂いた方が明確だと思うので、もっと私の個人的な印象や感想、出国前に知りたかった!というようなことを書こうと思います。

 

まず、私の住んでいるNorwich(ノーリッチ)はイングランドの東側にあるNorfolkというカウンティー(県みたいなもの)の中心地です。人口21万人と規模はそこまで大きな街ではないですが、市街地には何でも揃っていてお店もある程度充実しており、周辺には自然が溢れていてとても安心して過ごせる街だなあという印象です。

 

ロンドンまではバスで3時間、電車で2時間ほどです。バスはMegaBusという格安バス会社を利用すれば£10以下で行き来できます。他にもNational Expressがあります。電車はNational Railが通っています。バスに比べれば高いですが、1年間有効で£30の16-25 Railcardを使えば半額ですし、早めに買えばかなり安く買えます。時期にもよりますが、頑張れば往復で£20とかでも行けます。直前だとかなり高くなります。車内は全席ボックス席ですし、カントリーサイドの景色を楽しめるので、私は電車の方が好きです。

 

ノーリッチを日本の街で例えればどこかな、と考えた時に、全く思いつきません。歴史的に都市や集落の発展の仕方が異なるからだと思います。イギリスで一番平和な街だと謳われていますが、ここが最初の街なので平和かどうかはよくわかりません。でもとりあえず住みやすいです。物価もロンドンに比べれば安く、大きなショッピングセンターが複数あり、そこで必要なものは何でも揃います。お馴染みのファストファッションのお店も一通りあるので、留学期間中に服が必要になったら手頃な価格で購入できます。ちなみにユニクロと無印はロンドンまで行かないと買えません。ロンドンの老舗高級デパートSelfledgeにとてもお洒落な無印が展開されていた時は、少し笑ってしまいました。

 

街の中には日本食が食べられるお店も幾つかありますが、一番評判がいいのはShikiです。夜はお高くて行ったことがないですが、昼間は手が出せるお値段でお弁当やらラーメンやら焼きそば、寿司やらを食べられます。ちゃんと日本の味がして美味しいです。店内の装いは海外の日本料理屋!という感じで清潔感があります。日本人の方が働いておられるので日本語で会話できて少し安心します。あと、大体邦楽ロックが流れています。私が行った時はGalileo Galilei青い栞が流れていて、遠く離れた日本で送った高校時代と現在が結びつき、不思議な感覚になりました。

 

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↑入口。私は写真が上手じゃないのですが、変にかっこいい写真よりきっとありのままの空気を感じられますよね。

 

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↑お弁当です。メインが選べます。豚の生姜焼きにしたのですが、美味しかったです。インスタ投稿に使ったのでお洒落ぶって霞みがけていますが、店内は霞んでいませんし食材ももう少し鮮やかな色をしています。

 

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↑激美味しい抹茶ティラミスです。行ったら頼んでください。

 

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↑よくわからない建物です。なんだか良かったので撮りました。またお洒落ぶって変な加工をしていますが、実際は普通です。街です。違う文化や身体的特徴を持っているだけで、それ以外は私たちと全く同じ人間がたくさんいて、各々の生活しています。

 

f:id:Luna9167:20160617055019j:plain↑街を象徴するノーリッチ聖堂で撮った写真です。よく晴れた日でした。中は荘厳で美しく、足を運ぶ価値が十分にありました。日本語のパンフレットもありました。神父様らしき方と「なんだか明らかに種類の違う文字が並んでるけど、これらの文字の違いはなんですか?」「日本語はひらがなカタカナ漢字の3種類を文字を使ってるんです。」という典型的な話をしたりしました。

 

 

 

 

私はホームステイを選んだのですが、かなり良い選択をしたなと思っています。

ホストファミリーは当たり外れあると聞いており、こちらに来るまではかなりビクビクしていましたが、私は当たりくじを引きとても穏やかに快適に生活できています。

 

私がお世話になっているのは、お喋り好きで外向的で働き者のホストマザーと、無口だけど優しくて頼りになるホストファザー、それから可愛いダックスフンドが3匹いる家庭です。短期留学の子たちを積極的に受け入れているお家なので、主にヨーロッパですがいろんな国の子たちが泊まりにきます。留学生のホストファミリーという役割も影響しているのでしょうが、一緒にテレビを見たり話をしたりしていて、典型的なイギリスの家庭だなと感じます。ホームステイの醍醐味、現地の文化を身近で知ることが十分にできているように思います。

 

1日の流れとしては、帰宅してから部屋で過ごし、17時半〜19時の間にご飯に呼ばれて一緒にテレビを見ながら食事をして、紅茶やホットコーヒーを飲んで少しまったりして、勉強したかったら部屋に戻れるし、勉強せずに犬とまったりしたければ10時頃までまったりできる。という感じです。ご飯の後に部屋に戻るタイミングを計るのが最初は難しく感じましたが、「もう寝るの?」と聞かれるようなこともないので、適当に理由をつけて部屋に戻れます。この距離感がかなり楽だなと感じます。部屋にいるときはドアを開けて入ってこられるようなこともほぼないです。私が部屋を空けている間に、掃除がされていたりベッドメイキングがされていたりします。

 

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↑部屋です。広くはないけど落ち着いて過ごせます。隣に使われていないベッドがありますが、洗濯物置きになってます。ちなみにINTO University of East Angriaの学生は、勉強机と椅子のある一人部屋が保証されています。あと独立していない子供のいる家庭には配属されません。

 

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↑ワンコたちです。右の茶色くて小柄な子がベンジー、左の黒くてシャイニーな子がオービ、手前のお年寄りがエリオットです。みんな最高に可愛くて大好きです。ベンジーは1歳3ヶ月、お行儀が悪いけど柔らかくてとっても可愛くて、まだまだ子犬という感じです。オービは1歳7ヶ月、人懐っこくてベンジーより少し落ち着いていて、毎日私の膝の上でウトウトしています。エリオットはおじいちゃん犬で目と耳が悪いのですが、ご両親の”Chicken wing!"(生の手羽先)という言葉にはすぐに反応します。

 

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↑家から車で一時間ほどの海沿いの街、クローマに行った時の写真。犬たち、めちゃくちゃはしゃいでいました。

 

 

衣類の洗濯はおよそ週に一回。毎日のお洗濯が当然だったので抵抗はありましたが慣れました。セーター類を頻繁には洗わないのは未だに抵抗がありますが、洗濯機が洗濯機なので、あまり洗いたくないというものあります。手洗いすればいいのですがそれも面倒だし・・・我慢しています。

 

学校までは歩きとバスで40分ほど。寮で暮らす子たちからすると遠いようですが、通学路で鳥の声を聞いたり道行くの人を観察したり、バスで少し話す知り合いができたりと、通学時間も大事な生活の一部となっているので、遠くて負担になるということはありません。むしろ、毎日一定時間歩くこと、自然に触れられることが、健康的な生活に役立っているように思います。

 

私がホームステイを選んだのは、まず第一に寮より費用が少し安かったからです。第二に、親身に相談を聞いてくれる人がいてほしかったという理由。実際、なんでも相談できるネイティブがいるというのは強いです。入ってくるイギリス国内外、地域の情報なんかも寮の子たちに比べ多いように感じます。また、ネイティブの英語を毎日聞けるのも利点だと思います。第三に、すぐ隣に他人が住んでいて人の声が夜中もするような環境、共用キッチンの利用なんて私には無理だと思ったからです。寮に住んでいる友達の部屋を訪れたことがありますが、部屋、特にバスルームがめちゃくちゃ狭いし、共用キッチンでは冷蔵庫のものが盗まれるっていうしで、私には無理だなと思いました。

 

結果的に満足ですが、欠点を挙げるとしたら、まず、突然の授業の変更があった場合や変更の存在を忘れていた場合に授業に間に合わない。あと、忘れ物を取りに帰れない。そして一番の欠点は、友達と会う機会が減ることです。やはり寮で生活していると頼る相手も友達になるし、共用スペースで話もできるみたいです。でも、交換留学で来ていてホームステイ利用の友達は、私と違って直帰せずに授業後はコミュニティの集まりに顔を出したりして、人と関わる機会を自ら作りこの欠点をカバーしているようです。私は長期留学予定なので、ファウンデーションの間はコミュニティに参加したりする人間関係の努力はしなくていっか〜という姿勢でいるのですが、短期留学の子たちは必死でコミュニケーションの場を作っていて偉いなあと思っています。

 

 

最後に、イギリスで生活して驚いたことや印象的なことを羅列してみようと思います。

 

・本当に天気が変わりやすく曇りや小雨が多い

・みなさん多少の雨では傘は差さない

・日本のように気候や食材から感じられる季節感というのは薄く、バンクホリデー(国民の休日)やテレビ放送される大きなイベントで、どれくらい一年のうち月日が過ぎたかを認識している

・犬を飼っている人が多く、夜はベッドで一緒に寝るのが普通

・英国王室とサッカーの話題

・スーパーは大手多国籍企業が占めていてアメリカのスーパーのイメージと同じ。

・トイレの水の流れが悪い

・日本のような壁に取り付ける暖房よりRadiatorが普及しており、部屋をあっためたりバスタオルや衣類を乾かすのに使う

・わかってはいたものの、ユニットバス(とてもつらい)

・Dish washerがあるのが当たり前(とても手で洗いたい)

・洗濯機のクオリティが日本と比べてしまうとなんというか、荒い(気に入っていた靴下屋の靴下が洗濯後に破れてしまい落ち込んでいたところ、行く先々で探し回ってくれて、結局わざわざイタリア旅行の時にイタリアで買ってきてくれたのはいい思い出)

・バスの乗り降りをする際「ありがとう」と言うのが普通

・というか「ありがとう」と言ったり軽い会話をする機会が日本より圧倒的に多い

・基本的に朝食に野菜は摂らない(English Breakfastで検索)

・野菜と魚の種類があまり多くない

スクランブルエッグは電子レンジで作る

・お米は炊かない、茹でる

ダイエットコーラペプシ、レモネード

・コーラは料理に使う

・ファットフリーの軽いバターを使いまくる

・例のフィッシュアンドチップスと煮豆は毎週食卓に出る

・スイートポテトはサツマイモと違ってオレンジ色

・甘いお芋みたいなのに人参っぽい食感の不思議な野菜Parsnips

・食事にポテトが多い

・食事にポテトが多い

・食事にポテトが多い(丸まま焼いたポテトとマッシュポテトがあたかも別の料理のような顔をして同じプレートに乗っかって出てくる)

 

まだ探せばあると思うけどこれくらいにします。

 

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↑来て間もない頃にいつも出してもらっていた朝食。驚きの炭水化物量。しかもコーヒーもしくは紅茶付き。低血糖症の私は毎日昼前に低血糖になり頭痛と吐き気を催してしまったので、話すのに勇気が必要でしたが相談して少し変更してもらいました。今は基本的にブラウンブレッドとヨーグルト、プラス時折糖質量の少ないシリアルやバナナ、っていう内容です。毎日の頭痛はなくなりました!(ほっ)

 

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↑週1で出るRoast Chicken and Yorkshire Puddingです。ポテトが多いけどかなり好きです。ソースが美味しい。真ん中にあるのがPersnipsです。

 

 

 

やっと留学生らしい投稿ができたので満足しています。ノーリッチに留学予定のある人が見てくれたなら嬉しいなあと思いつつ、寝ます。

 

 

明日は金曜日!食後のアイスクリームの日です!わーい!アイスクリームのために頑張ります!(毎日「アスカアイスクリームは?欲しいよね?ね?」と聞かれるので、毎回断るのもなんだかなあと思い「金曜日だけ食べる!」と宣言して以来、マザーとファザー公認のアイスクリームの日となりました。)

 

お休みなさい。

私について

はじめまして、奥です。

このブログでは、イギリスでの留学生活について書いていこうと思っています。

方向性は特に決めていません。気軽に書いていこうと思います。

 

これは最初の記事なので、私自身について書こうと思います。長くなります。

 

私は2016年の1月からイギリスのノリッヂ(Norwich)にあるイーストアングリア大学(University of East Anglia, 通称UEA)のファウンデーションコースを開始しました。ファウンデーションコースとは、イギリスの大学に入るために留学生が取らなければならない約1年間のコースです。他にも色んな入学、編入ルートがありますし、イギリスの教育制度の違いなどもこのコースの説明には絡んできますが、今回はすべて省略します。いずれコースや学習環境について書こうと思っています。

 

1月2日に家族でおせちを食べ、お屠蘇を飲んで、猫を撫でて、いつもの車で福岡空港へ向かい、ギリギリで日本円をポンドへ替え、偶然航空会社のデスクで働いていた高校の先輩と昔話をして、ギリギリでゲートへ向かい、16時間の長い長いフライトと乗り換えを経てノリッヂ空港に到着し、ホストマザーと慣れないハグを交わし、空港から家までの車で"Everything is new to me"と呟いてから、早くも5ヶ月が過ぎました。

 

たった5ヶ月の間に色んなことがありましたが、どんなに苦労から生まれる不安や憂鬱も、過去にあったそれらと比べればずっと生温く、むしろモチベーションに変換できる程度のものだったように感じます。

 

というのも、ここに至るまでの2年間は私の人生で最も暗い2年間だったからです。

 

2014年の春、私は晴れて大学生になりました。入学当初は勉強も楽しい、面白いサークルも見つけた、友達もいる、憧れていた東京の街は魅力的、アルバイトも楽しい、何の問題もないように見えました。怖いものなど何もなく、ただただ現在と未来が輝いて見えていました。けれど少しずつ、目に見えない歯車のネジが取れていきました。私は自分の心と体に異変を感じるようになりました。大学に行きたい、勉強がしたい、サークル活動もしたい、それなのにしたくない、出来ない、体が動かない。体に鞭を打って学校に行っても、頭痛や吐き気、呼吸の苦しさを感じるようになりました。

 

学校へ行っていない、という事実がさらに私の首を締め付けました。両親に高い入学金や授業料を払ってもらって、安くない部屋を借り生活しているというのに、義務を果たしていない自分を責めることがやめられませんでした。自分に何が起きているのか理解できず、ひたすら苦しみました。

 

止まらない自責、自己嫌悪、自信喪失、絶望、希死念慮、そんな黒くて重い感情と、勉強がしたい、学校に行きたい、行かなければいけない、私なら大丈夫、元の自分に戻れる、頑張りたい、頑張りたい、頑張りたい、そんな本来の私らしい感情が、いつも頭の中で戦っていました。

 

そんな抗いも虚しく状態は悪化していくばかりで、気づけば、強すぎる自責とあまりの心臓の痛み、生きている心地のしなさからか、自傷行為まで始めていました。今思うと本当に恥ずかしいのですが、その写真をSNSに載せたりもしました。当然誹謗中傷を受けましたが、同じことをしている人がいたことや、反応を得られるのが承認欲求を満たしたのか、やめられませんでした。

 

しかし、その異常性への自覚と、早く治したいという気持ちから、勇気を出して精神科へ通うことにしました。それが7月のことでした。

 

精神科の先生はとても優しい女性の先生で、安心して通うことができました。抗鬱剤向精神薬睡眠薬も、弱いものを少量だけ処方してくれました。薬漬けにはなりたくなかったので、先生の決断には感謝しています。しかし薬で簡単に治るものでもなく、戦いは続きました。自傷行為は悪化し腕の傷は広く深くなり、オーバードーズをしたり、ベッドから落ちて痣を作ったり、頭を気分が悪くなるまで床に打ち付けたり、ベランダから落ちようとしたり、洗剤を飲んだり、首を切ったり、国道沿いの植物の葉や紫陽花の葉を食べたり(笑)、色んなことをしました。それでも鬱は、抜けません。

 

それらの症状から、私は適応障害と断定されました。特定の環境、社会集団に適応できず、仕事や学業に支障をきたすストレス障害の一種です。他にもパニック障害の症状もありましたが、大学休学のための診断書に書いてもらったのは適応障害のみでした。「適応障害」という文字列は私を傷つけました。社会に適応できないという病気。一気に社会から追い出された気持ちになりました。ただでさえ異常な精神状態だったので、その文字列から受けたショック、疎外感、絶望感は凄まじいものでした。

 

病名を得られたことを問題解決の糸口を得られたことと解釈し、前向きに捉えようともしました。ひたすら治療方法をインターネットで調べました。カウンセリングも受けました。そして至った結論は、とにかく家を出るためにアルバイトをすることでした。大学へは行けなくても、海外旅行の資金を稼ぐためのアルバイトなら行ける、と思いました。そして8月の終わりからアルバイトを2つ始めました。アルバイトは順調でした。どちらもとても楽しくて、体がつらくても続けられました。しかし、それでも鬱は抜けません。

 

そして9月、ロンドン・パリへの旅行へ行きました。短かったけどとても充実していたし、大学へ戻ったら高校時代の計画通り留学しよう、そのために治療を頑張ろう、と改めて思いました。友達と行ったのですが、一緒に旅行に行ってくれるような友達がいること、親の力なしでも海外旅行へ行けたことは、自信に繋がりました。しかし、残念ながら好転の兆しはありませんでした。

 

当時、兄と一緒に生活をしていたのですが、兄はいつも私を支えてくれました。両親へは心配をかけたくないから言わないでほしい、というお願いも聞いてくれました。私がご飯を食べることさえ出来ない日はご飯を作ってくれたし、起きれない朝は腕を引っ張って起こしてくれました。ほぼ介護です。1日中ベッドで寝て、麻薬のようなUS-POPをリピート再生し続ける私を、「それ聞き飽きたもうやめて!」と言いながらもいつも助けてくれました。そんな大好きな兄に自傷行為をやめなよと言われても、無理でした。カッターを隠されたら包丁を使い、カッターも包丁もどちらも兄の職場に持って行かれたら、コンビニで新しいカッターを買って切りました。それが確か11月ごろで、もう、私は限界に達していました。生きる目的になっていたアルバイトに行くことさえ、苦しく感じるようになりました。

 

そんな時、遂に私は両親へ助けを求めました。いつ頃だったかも、なんとメッセージを送ったかも覚えていませんが、とても悔しくて、恥ずかしくて、悲しくて、申し訳なかったこと、母親からもらった言葉の優しさがまた胸を締め付けたことは覚えています。それから、たった1つだけ、ネジが嵌ったような感覚もありました。その後、母がすぐに福岡から東京へ駆けつけてくれました。

 

一緒に精神科へ行き、解決策を求めました。私の「もう限界で、まともな生活ができない、療養施設に入れて欲しい、もうあの場所に住めない。」というお願いに対して、帰ってきた答えは、私の想像とは違っていました。先生から提案されたのは、閉鎖病棟への入院、もしくは、福岡で保護者の観察下、精神科病院への通院。首への自傷行為は自殺未遂と受け取られるので快適な療養施設は入所不能とのことでした。

 

私はその二つの選択肢を与えられた時、気が狂いました。閉鎖病棟なんて死んでも行きたくない、それに絶対に福岡になんて帰りたくない、夢と目標を抱え上京してきて、ここまで頑張ってきたのに諦められない、東京に負けたくない、でも与えられたのはたった二つの道、もうどこにも行き場がない、私に生きる場所はない、もうどうしていいかわからない。

 

先生と母は私を実家に送還する決断を下しましたが、私は口をつぐみ、完全に不貞腐れました。病院からJR高円寺駅までの道のりでも、私は一言も喋りませんでした。そして駅に着いた瞬間、私は母を置いて走り出しました。どこへ走って行ったか覚えていませんが、母親が追ってこられないところまで逃げて、地面に座り込み、死ぬことを考えていました。母親から「どこにいるの」「お願い返事をして」とメッセージが来ても無視しました。わがままな10歳の子供のようでした。結局母に発見され、一言も言葉を発さず家まで帰り、帰宅してすぐにベッドへ潜り込み、聞こえないように声を殺して泣きました。私が逃亡していた時、ちょうどJR中央線では人身事故が起きて電車が遅れていたらしく、母はひどく心配したそうです。娘が身を投げたかもしれないだなんて、それはもう怖かっただろうと思います。とても悪いことをしたなと思っています。

 

その後、改めて先生と母が話し合った結果、母が東京でしばらく暮らす、ということになりました。そして新しい生活が始まりました。

 

介護の役目は兄から母に受け継がれました。簡単な料理やインスタント食品に慣れていた私と兄は、母の懐かしくて美味しい料理に、毎日大喜びしました。部屋は整理され、お風呂場や洗面所は磨かれ、冷蔵庫の中は実家のように賑やかになり、生活の質が一気に向上しました(笑)。

 

母も、1人で上野の国立科学博物館に行ったり、新宿のデパートでお買い物をしたりと、母なりに東京生活を楽しんでいたので私も安心しました。聖母のように優しくて、可愛くてド天然の母との生活は毎日本当に楽しくて、心から癒されました。福岡と違って複雑な電車も、(最初は何度も迷って人に聞いたらしいけど、)今や完璧に乗りこなせるようになったよと得意げにしている母を見て、この人のためなら何でも頑張れるなと思いました。母もきっと、同じことを私に思ってくれているのだろうと、その時やっと気づきました。両親、家族に対する認識が、私の中で大きく変わりました。自分を大切にすることが、大事な人を大切にすることでもあるのだと知りました。少し、成長できたのかもしれないと感じました。

 

その期間、両親の決断でアルバイトはきちんと回復するまでお休みすることになり、ひたすらダラダラする生活を送りました。「ダラダラすること」が治療でした。実際はずーっとダラダラしていたのですが、それは「許されざるダラダラ」であり、黒く重い感情の出処だったのです。私に足りなかったのは「肩の力を抜くこと」でした。強すぎる責任感と高すぎる理想が私を蝕み、殺そうとしていました。私に必要だったのは、「まあ仕方ないか、なんとかなる、大丈夫」と物事を楽観視する心の余裕、ストレスと上手に付き合う術でした。それらを育むため、「何もしなくていいんだ」「これが正しいんだ」と言い聞かせながら「肯定されたダラダラ」を実行しました。

 

腕の傷の治療のために病院へも通い始めました。腕の自傷跡を目立たなくするため、ケロイド部分を切り取る手術をし、初めての入院も経験しました。自傷跡を親に見せるのは、とても心苦しいことでした。大事に育ててもらった体を自ら傷つけるなど、度の過ぎる親不孝だと思っていました。それでも、両親は受け入れて、私が少しでも元気になるようにと治療を推し進めてくれました。

 

父も母もきょうだいも、責めたり、変に優しくなったり、気を遣ったり、そんな態度はまったく私に見せませんでした。ただ、受け入れて、応援してくれました。恥ずかしくて嬉しくて、悔しくて有難くて。私を縛りつけていた不安や恐怖が、家族の無償の愛情に触れて、少しずつ解けていくようでした。そして少しずつ変わっていく自分の心とひたすら向き合い続けました。たくさんたくさん自分という人間について考えました。

 

母は「無理して大学に行かなくてもいいよ、あすかには向いてないんじゃないの?」とまで言ってくれました。頑固な私は「絶対に辞めたくない、来年からまた頑張る。」と意地を張り続けました。そして2015年の春、大学生活を再スタートさせました。が、長くは続きませんでした。治療期間にリハビリのため大学を訪れたりした努力も水の泡となり、新学期も学校内での心身の不調に苦しみ、ここは私の居場所ではないという強い感覚に苛まれました。そして、鸚鵡返ししかしない大学付属の心理カウンセラーとのカウンセリング中、あまりにイライラした反動で「じゃあもういいです、辞めます。」と宣言し、その後2週間ほど親に退学の決心を告げる勇気を蓄えるのに費やし、なんとか告白、待っていたかのような「わかった、あすかが決めたようにしなさい。」という許しを得て、5月末に退学届を提出しました。

 

退学直後は国内の大学を目指そうと計画していたものの、もう日本の大学に通える自信がなかったこと、いずれ海外留学をしようと思っていたしそれならいっそ海外の大学へ行った方がいいのではないかと思ったこと、イギリスの開発学にとても興味があったことなどから、イギリス留学を決めました。この決断には両親も少し戸惑っていましたが、私が一度決めたことは貫く性格だと知っていてか、渋々承諾してくれました。費用も高いし、精神的にまだ不安定な娘を海外にやるなんて、不安だったろうと思います。それでも、やりたいことをさせてくれた両親への感謝と尊敬でいっぱいです。

 

そんなこんなで、2015年の春以降は、留学準備をしました。社会復帰の訓練のためにアルバイトに復活し、British CouncilやSI-UKのIELTS対策のグループレッスンに通い、渋谷の有料自習室に足を運んだり、都内の綺麗な図書館を巡ったりもし、それなりに充実した日々を送りました。

 

アルバイト先の店長さんは、私が病を抱えていることも承知の上で、雇い続けてくれました。さらには私の体調を心配したり、応援までしてくれました。アルバイトの休止を決めた時、正直に自分の状況を話して辞めるしかないと思ったのですが、店長さんもまた、受け入れてくれたのです。辞めないでほしい、元気になるまで待ってるから、また一緒にお店で働いてほしい、と言ってくれました。私は居場所が与えられたような気がして、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。私にとってすまし顔と孤独の街だった渋谷にも、こんな温かい人と場所が存在するのだと知り、私にとって戦場でしかなかった東京への見方が少し変わりました。

 

そうして比較的穏やかに日々は過ぎ、2015年もいつの間にか終わりを迎えました。12月の末には福岡へ帰り、気持ちの整理をしてから、イギリスへ飛び立ちました。

 

 

 

こうやって全て書いてみると、あの2年間は、短くて、遠い、そして濃い、ずっと昔の思い出のように感じます。正体不明の闇と戦っている時に、「この苦しみも過去に変わる、いつか笑って話せるのだ、今は耐えろ、頑張れ!」と言い聞かせていたことを思い出します。自己完結はしていても、人にどうやって打ち明けていいかわからないし、腕の傷もくっきり残っていて半袖が着られないことに悩んだりするし、まだまだ完全に消化しきれてるわけではないけれど、こんな過去の物語のように書けることが幸せです。

 

私は今、とても幸せです。

 

あの2年間を無駄にしたくなくて、意義を見出そうとたくさん考えてきました。私は本当にたくさんたくさん考えたなと思います。そして、自分なりに答えは幾つか出せたと思っています。だからこそ、今幸せを感じることができるのだと思います。

 

あの時期に考えたことすべてが、今私のやっている勉強とこれからやりたい勉強のモチベーションになっているし、現時点の人生の目標への道程を明るく照らしてくれています。また、新しい疑問を私に投げかけてもくれます。あの時間が私自身と向き合う貴重な機会をくれたし、家族の愛情を教えてくれました。社会の厳しさも、人の優しさも教えてくれました。一度社会から投げ出された経験は、人間と社会への関心を強め、見えづらいけれど確実に存在する社会的弱者の存在への意識を強めてくれました。

 

鬱のお陰で、大好きだった音楽もどうでもよくなり、何もかもへの好奇心を失ってしまい、毎日嘆き苦しんだけど、結果的には、少し形は違うけれども更に強い好奇心を生んだので、何も無駄なことはなかったと言えます。好奇心は、私の生きる糧です。これからもずっと持ち続けていきます。

 

それに、今までよりも、傷ついている人や弱っている人への共感力が強まったと感じます。"鈍感力"が必要とされるストレス社会で、自他の感情に敏感すぎて生きづらさを感じる人たちに、心を寄せることができるようになりました。人の悲しみや喜びを自分のことのように感じる能力を、不要だと邪険に扱うのではなく、私は使いこなしたいと考えるようになりました。その意志が今の将来の夢を支えています。

 

今でも時々、あの頃を思い出して色んな気持ちになりますが、その頻度も減ってきました。私の中で過去の比重より、未来の比重の方が重くなってきています。これはとても良い変化だと思います。

 

過去は変えられなくても、過去に対する捉え方は変えられる、それ次第で現在も未来も変えられるのだと思っています。

 

過去を疎ましいもの、忘れたいものと扱えば、それはただの肩の荷として私の中で在り続けるだけです。でも過去を受け止めて自分を分析する材料にすれば、それはエネルギーとして昇華できます。過去の事象から浮かびあがる自己は不確かで、たくさんの疑問が生まれます、「どうして私はこんなに弱いんだ」「人を信じることはどうしてこうも難しいんだ」「私が本当にしたいことはなんなんだ」。でもそれらの疑問は、少なからず私にとって、エネルギーになりえます。はっきりしないことは嫌いなのです。わからないことは知りたいのです。もし、知りたいと思わないことがあったなら、なぜ知りたいと思わないのか知りたいのです。

 

 

私なんかが適応障害を克服できたから、誰だってすぐ克服できる!だなんて言えません、その治療過程は人によって大きく異なると思うし、軽度だった私でさえひどく苦しい思いをしました。だけど一つだけ言えるのは、必ずいつか治るということです。

 

もしも、ほぼないと思うけど、ストレス障害を抱えている人がこの文章を読んでくれたなら、私はその、病気について調べている行為を讃えたいと思います、治したいという気持ちが病を治します、病は気からという言葉はある意味科学的にも証明されているし、安心してもがき続けて欲しいなと思います。私が克服できたのは治したい一心でもがき続けた私自身の努力と、家族や周りの人の支え、二つの柱があったからだと思います(昔から自分の努力を認められない性格だったので、こうやって認められているのはかなりの進歩です!)。ストレス障害になる人は他の不安障害などを併発しやすく、それらの病気にかかる人たちには性格にもパターンがあります。きっと私と似ている人なんだろうなと思うし、きっと治療に精を出していると思います。いっぱい無理をして、自分を責めて、努力にも裏切られて、絶望の淵にいるかもしれません。そんな人たちを私は心から応援するし、何か聞きたいこと、人に言えないけど話したいことがあったら、コメントして欲しいなと思います。

 

世の中には、思ったより自分を受け入れてくれる人がいます。物事を見る目が悲しみで曇ってしまって見えていないだけで、優しい人や心を開いてくれる人はたくさんいるし、ゴミクズのように感じる自分の中にもいいところはたくさんあります。

 

悲しみは無敵ではありません、彼らを倒す方法は2つあると思っています。1つ目はセロトニンを分泌させることです、悲しみも所詮セロトニンには勝てません。簡単に分泌させられないけれど、努力するしかありません。努力しない、という努力も時には必要です。2つ目は支えを得ることです。私は家族が一番効果的だと思いますが、誰でもいいから信頼できる人に話すこと、支えを得ることは不可欠な治療だと思います。人と話すことで得るものは想像以上です、むしろ外部の干渉がなければ、苦しみのループから抜け出すことは不可能だとさえ思います。誰でもいいから話す、信頼できる人に話す、第三者でもいいから、考えていることを話して、もし有益な情報を得られなかったとしても、喋っているうちに気持ちがまとまったりするし、相手の反応から新しい視点や価値観に出会えたりもするし、むしろそちらの方が大事だと思います。

そうやって身体的アプローチと、精神的アプローチを同時に進めていけば、曇ったレンズは少しずつ元に戻っていき心に余裕も出て、社会復帰も可能になると思います。

 

精神を病むのは決して本人のせいではないと思います。誰のせいでもないし、もしストレス源が誰か他人だったとしても、相手を責めたところで治るわけがないです。大事なのは治療を諦めないことだと思っています。私は諦めなくてよかったと心から思うし、もしまた精神を病んでも、決して諦めないと思います。今だから胸を張って言えるけど、人生、なんとかなります。むしろ、自分の人生最高です、万歳、生きててよかった、生命最高です。

 

 

 

 

 

病気の話で終わったけど、これは一応留学生活日記です!笑

 

 

でも時々こんなことも書いちゃうと思います。うーん、ブログの未来が読めない。あと眠くて文章もうまく読めません。思ったより時間をかけてしまってもう夜中の3時半なので、寝ます。おやすみなさーい。